ノスタルジア
プロット
イタリア・ソ連合作
03月31日 1984 劇場で
山河ノスタルジア
プロット
中国・日本・フランス合作
04月23日 2016 劇場で
ラブレス(1983)
プロット
アメリカ
01月01日 1900 劇場で
卍(1983)
プロット
日本
03月12日 1983 劇場で
イリュージョニスト(1983)
プロット
オランダ
10月25日 1988 劇場で
鍵(1983)
プロット
日本
12月24日 1983 劇場で
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ノスタルジア(1983)コメント(20)
絵画的というのか、ドラマチックな画面が美しい。高画質で観るべき。
GYAO!にて
明確なストーリーさえ理解出来ずに睡魔との戦いに集中してしまい背伸びしてタルコフスキーの良さを感じたいと思った結果は置いてけぼりにされてしまった!?
モノクロの映像が過去のことなのか?妄想?音楽家の人生?ラストのロウソクも含めて何も理解出来ずに。
万全の体調で映画館で観ていたとしてもウトウトすること間違いなしな恐るべし!?タルコフスキー!!
そんな時代に青年を過ごした自分としては、タルコフスキー監督の作品のうち、SFである「ストーカー」「惑星ソラリス」は観ているが、残る「鏡」「サクリファイス」「ノスタルジア」を観ていないことが、長く心に引っかかっていた。(「アンドレイルブリョフ」もあるか…)
それを今回、早稲田松竹さんのおかげで、とうとう、それも「サクリファイス」「ノスタルジア」の二本立てという豪華組み合わせで、観ることができた。
観念的な映画だろうから、今回は予習してから行ったよ。なかなか次はないだろうし、DVDもタルコフスキー作品は高いし。
しかし、そんな俺の努力は、風に舞い散る落ち葉のように、見事に吹き飛ばされたよ。2分に一度は寝たよ。あ、やばいと目はすぐ覚ますのだけれど。あらすじを全部読んでから行ったので、落ちまくっていても、かろうじて話はわかるのだが、その話がまた何言いたいのかよくわからない話。
もちろん、これらは何を象徴するのかという数多くの問いかけに「それらは象徴ではなく比喩であり、スクリーンの中で起こっていることは現象である」と監督が答えていることも予習済だし、「ストーカー」「惑星ソラリス」で慣れているつもりだったが、どうしてどうして。タルコフスキー監督は、そんなものではございませんでした。
話題のラストシーンを「綺麗だな」と確認するのが精一杯で、劇場を後にしたのでした。
2020/9/10 追記
このレビューじゃ、タルコフスキー監督を誤解されかねないので、早稲田松竹さんの、短いが的確な紹介を載せておきます。
> 聖なる狂人に導かれて世界を救おうとする男
う〜ん、素晴らしい。「早稲田松竹 タルコフスキー」で検索すればヒットしてくる紹介記事を、是非参照ください。
彼は自殺したロシア人音楽家・サスノフスキーの取材のため、モスクワからこの地にやって来ていた。旅も終わりに近付いた頃、アンドレイはある温泉町で人々から変人扱いされている老人に出会う。
◆感想
・相変わらず難解なストーリーである。
- だが、この作品に魅入られる自分が居る。-
<今作は、ソ連を追われたタルコフスキー監督の想いを込めた作品である。間違いなく秀作であろう>
この圧倒的映像美は絵画表現のようでもある。
そして、もう一つ重要なのは、タルコフスキーの水表現について、この作品で解が与えられたことだと思う。
序盤で映し出される絵は「懐妊の聖母(マドンナ・デル・パルト)」だ。
ルネサンス初期のピエロ・デラ・フランチェスカの作品だ。
マリアの顔が、言い方は悪いが、憮然としているように見えるのが印象的だ。
フィレンツェのサンマルコ美術館にあるフラ・アンジェリコの「受胎告知」のマリアは、戸惑いながらも、処女であり妊婦であり、母になる優しい予感もしたが、こちらは、大きくなったお腹を突き出して「なんか、神様の子供、身籠ったみたいよ」と不貞腐れているようにさえ見える。
妊娠を告げられ、戸惑いもあったが、希望もあった。しかし、お腹が膨らむにつれて、どうも何かがおかしいと疑問を持つようになった感じだ。
自分の祖国に対する希望が次第次第に薄れていく感じと重なるものを感じたのだろうか。
既に言われて久しいことだが、この作品のアンドレイはタルコフスキー自身のことだ。
そして、僕は、ドメニコはタルコフスキーの心なのだと思う。
アンドレイとドメニコの会話は、自問自答のような気がするのだ。
温泉は祖国。
温泉の湯煙は、何かを隠しているもののたとえなのだろうか。
この作品でも滴る水の音や、屋内にも降り注ぐ雨など水の表現は多い。
ドメニコは演説の中で、水は根源なのだという。
水は、万物を育み、人間が生きていくためには必ず必要なもの、拠り所になるものだ。そして、時には、悲しみなども洗い流し、浄化し、宗教的な意味も持っているように思う。
蠟燭の火は、きっと情熱だ。
ドメニコの最後の演説はタルコフスキーの心の叫びだろう。
ピラミッドは完成させることが目的ではなく、続けることが重要なのだ。
だが、ドメニコは焼身自殺し、人々はこれを傍観し、歓喜の歌が流れる。
タルコフスキーの心が死んでしまったのだろうか。
そして、ドメニコに指示された通り、アンドレイが温泉に駆けつけると、既に、温泉は枯れてしまっていた。
何かを隠すように覆っていた湯煙もほとんどなくなってしまっている。
希望はついえたのか。
そうした希望のない場所で、情熱を燃やしても、役には立たないと言いたいのだろうか。
だが、枯れた温泉ではあるが、なんとか蝋燭の火を灯すことが出来たことは、希望が潰えていないことを表しているのではないか。何も、希望はタルコフスキーだけではないと言っているようにも思える。
そして「1+1=1」は何を指し示すのか。
誰が考えても解を導き出すことが出来ない数式は、タルコフスキーのどうすることも出来ない気持ちなのかもしれない。
この作品の後、タルコフスキーは亡命する。
タルコフスキーは、ノスタルジアになるのだ。