おもいで写眞
プロット
日本
01月29日 2021 劇場で
おらおらでひとりいぐも
プロット
日本
11月06日 2020 劇場で
お嫁においで
プロット
日本
10月20日 1966 劇場で
だれのものでもないチェレ
プロット
ハンガリー
01月30日 2010 劇場で
いつか、いつも……いつまでも。
プロット
日本
10月14日 2022 劇場で
いつまでも二人で
プロット
イギリス・アメリカ合作
11月03日 2000 劇場で
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おもいでの夏(1971)コメント(7)
1942年の夏、戦火を逃れてニューイングランド沖合いの美しい島にやって来た少年ハーミー(ゲイリー・グライムズ)とその家族。とはいえ家族は一切登場しない。15歳の少年が少年としての最後の夏を送る、それが原題でもある「1942年の夏」の出来事。そこにはハーミーと、そこで知り合ったオシー(ジェリー・ハウザー)とベンジー(オリヴァー・コナント)という同い年の友人。そして、思春期の彼らの興味である女の子が登場すれば十分だ。けれど、そこに、小高い丘の家に住む美しい人妻ドロシーが登場する。
よくある話といえば、それまでだ。例えば思春期映画「青い体験」などと比較されるのも仕方がなかろう。けれど、一般的によくある話だとしても、一人一人からすれば、少年のひと夏の体験は、その少年だけのものだ。そして、彼にとって、大きな分岐点でもある。そこをしっかりと弁えて描かれているからこそ、ありきたりでありながら、この映画は誰にも切ないのだ。そして、単なる一通過地点として記憶の底に埋没させてしまい毎日を送る人々に、自らの特異な分岐点、悔いなる杭がまたにょきにょきと頭を持ち上げてくるのだ。「あの夏、もし、そんな体験がなかったら」「その体験に、もしああしていたら」そんな空想がぬめぬめ染み出てくるのだ。
それはキーワードが夏だとしても、実際の季節の夏ではないかもしれない。人妻ドロシーを演じるジェニファー・オニールは美しい。ハーミーとお相手をする同世代の女の子アギー(キャサリン・アレンタック)もけっして可愛くないわけではない。でも、ドロシーのご主人が赴く戦地からの悲報によりハーミーが体験するドロシーは、夏が終わる海のように切なくきらきらと輝いていなければならない。そして、私たちは、そんな輝きを忘れていたことに悔やまなければならない。悔やむことで、時間を遡る、そこへ立ち戻るということを可能にする。
もう二度とないだろう。
彼女に与えられた、あの安らぎ、あの不安、あの自信、そして無力感。
冒頭に流れるナレーションが、本作の全てを物語っています。
15歳の少年が、肉体的にも精神的にも大人の男へ一歩進んだ、ひと夏の甘く苦く切ない出来事を描いた、子供から大人に成長していく通過儀礼がテーマの映画です。
当然、主人公ハーミーの視覚から捉えた、徹底して一人称の映像であり、40数年前、ハーミーと同じ15歳の時に観たこの映画は、完全にハーミーと同一視点に感情移入して観た記憶があり、胸が苦しくなるほどに悩ましく強烈な印象を与えてくれました。
延々と描写されるドラッグストアの長回しシーンは、将に思春期のバカな男たちが嘗て辿った通過儀礼そのものであり、コーヒーは苦味を我慢してブラックで飲むのが、大人の男への入場券と思えていました。大人を模倣するために、虚勢を張って思いきり背伸びしたあの頃を経て、いつの間にか人は一人前になっていくのでしょうか。
己自身を顧みても得心できる、10代の少年たちの何と無邪気で無知で愚かなことか、そして呆れるほどに性への好奇心を滾らせていたことか。
原題でもある、ハーミーたちの「1942年の夏」の空は、常に晴天だけれど、セピア色の靄のかかったような青磁色の蒼空であり、気持ちは晴れて精気は漲っていながら、心はどんよりとして不安定な、恰も思春期の心象風景を現しているかのようで、これにアンニュイな哀感と寂寥感のこもった、単調だけれど情感豊かに心に染み入ってくるミシェル・ルグランによるテーマ曲が重なると、観客を浮揚感とノスタルジックな既視感に導いていきます。
そしてハーミーに強烈な懊悩を与えた、人妻ドロシーを演じるジェニファー・オニールの何と燦然と優美にして妖艶で、官能的に神秘的で蠱惑的なことか。
彼女とのベッドシーン、初めての異性、海の潮の香、寄せる波と引く波の音の心地良い揺らぎの音色、静謐にして厳粛なこのシーン。これほど煽情的で耽美的で抒情的なベッドシーンは他に知りません。然しハーミーにとって、興奮と歓喜の坩堝のはずなのに、何故か哀愁と悔悟の思いが過ります。
エンディングでのナレーション、「まだ少年が少年であった時代だった。人生のささやかな出会い、人はそれで何かを得て何かを失う。」
「私は、嘗ての出会いから何を得て何を失ったのだろうか」、ふと自問自答してみたくなりました。