あいつに恋して
プロット
日本
05月30日 1987 劇場で
ボーはおそれている
プロット
アメリカ
02月16日 劇場で
私の知らないあなたについて
プロット
日本
12月02日 2022 劇場で
あいつ
プロット
日本
08月10日 1991 劇場で
ガーディアン/森は泣いている
プロット
アメリカ
01月01日 1900 劇場で
君は永遠にそいつらより若い
プロット
日本
09月17日 2021 劇場で
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王国(あるいはその家について)コメント(3)
友人夫婦の子供を川に突き落とした女性の話です。
初めとまん中、そして終わり、、その3箇所だけ映画としての完成形映像になってます。
がその他の場面は稽古場、会議室で台本を持った状態の読み合わせの記録映像です。
役者が役に入って行く過程、同じ台詞をなんども見せられます。
当初からこの構造は決めていたそうですが編集は全く決めてなかったとアフタートークで知りました。
角度を変え、サイズを変え何度も同じ会話をみせられますが実は会話は少しづつ進み全体像がゆっくり見えてきます。忍耐が必要です。
正直言ってもっと短くても出来たかなと思いましたが、何度も何度も練習する役者、そしてそれを見せられる私たちも一緒にずるずると登場人物と話に感情移入し、引き込まれていく体験は初めてで新鮮な体験でした。
💤イビキかいてるおっさん1名、
途中退室者1名。
"映画って、だいたいしゃべってる人を中心に撮るでしょ。そうすると、そのあいだって、聞いてる方が何してるかわかんないでしょ。
だけど、しゃべってる人の動作なんて、だいたい見なくたってわかってるしーー"
保坂和志『プレーンソング』より
発話者を、ひいては音の鳴る方向をひたすら愚直にカメラで追い続けることにはあまり意味がない。むしろ空間が平板化し、ショットに立体性がなくなる。
しかしかといって映画青年の言うことをそのまま実践し、音のしない方向だけを映し出すことにももちろん意味がない。保坂もまたそんなことを主張させるためにこのセリフを書いたわけではないだろう。映画青年が本当に言いたかったこととは何なのだろうか?
さて、本作ではホン読みをする3人の男女の姿が異なる角度や長さで次々と映し出されていく。
そこに数学的な法則性は見当たらず、素早くカットを切ってみたり、10分以上の長回しで捉えたり、とにかくさまざまな実験的撮影が実践される。
舞台のほとんどは殺風景なレンタルスペースや公民館の空き部屋のような場所だ。しかし撮られたショットにはときおり形容しがたい緊張感が漲っている。というのも、映像と音声の絶えざる離合集散がショットを立体たらしめているからだ。
カメラは発話者を映し出したかと思いきや徐々にその横の傍聴者へとスライドしていったり、あるいは何もないところで立ち止まったりする。映像と音声の距離が伸縮することで、そこにその時空間固有のテクスチャが現れる。
『プレーンソング』の映画青年が本当に言いたかったことはまさにこれなんじゃないかと思う。つまり、カメラの前の時空間が湛える固有のテクスチャを捉えること。
ここでいうテクスチャとは単に辞書的な意味での手触りのことを指すのではない。そこに存在するありとあらゆるもの(会話する人々とか、吹きつける風とか、遠くから聞こえてくる音とか)の総体が織り成す現今的な、つまり今この瞬間にしか生起しえない手触りのことだ。
ロベール・ブレッソン曰く、シネマトグラフの条件とは不意に出来する奇跡を捉えることにあるのだという。まるで釣り人のように、静かな湖畔にじっと竿を垂らし、何かが通りかかったら釣り上げる。何が釣れるかはわからない。重要なのは、その瞬間を逃さないことだ。
しかし本作がブレッソンの諸作品と異なるのは、釣り上げるまでの過程をもテクストとして観客に提示していることだ。本作にはまさに「決定的」といえるようなショットもあれば、はっきり言ってそこまで意味があるとは思えないショットもある。ピンボケのカメラ、ガタガタのパン、セリフを噛む役者。
そのとき私が思い浮かべたのは積み木の玩具だ。積み木の玩具はレーシングカーやぬいぐるみと異なり、あらかじめパーツが最小単位の素材に分解されている。なおかつプラモデルのように明確な完成形も存在しない。
本作もまた積み木の玩具のような作品であるといえる。そこには最小単位の素材だけがある。幾度と同じ箇所を繰り返すホン読みシーンもそうだし、途中で挟まれる橋や砂場や道路(おそらく元の脚本を順当に撮っていくのであればロケ地として使用されていたであろう場所)のショットもそうだ。
そしてそれら素材を組み立て、無数の「映画」へと昇華させていくのは、他ならぬ我々受け手の責務だ。
そういう意味では本作はメタ映画だといえるかもしれない。受け手に出来合いのスペクタクルを提供するのではなく、素材だけを手渡し、能動的に組み立てさせる。
当然、出来上がる映画は受け手の数だけ存在することになる。先ほど私は「ときおりハッとするショットがある」といったことを書いたが、人によっては私がハッとしたショットに何も感じないかもしれないし、逆に私が何も感じなかったショットにハッとしているかもしれない。
ここで脚本上の「王国」のエピソードが輝きを帯びてくる。「王国」とは親しい者たちの間にのみ成立する超言語的空間のことだ。脚本の中の亜希と野土香のように、あるいは野土香と直人と穂乃果のように、我々受け手もまた監督ら作り手と個々別の「王国」を築き上げているといえる。メタとベタの境界が瓦解し、映画は無際限に拡張していく。ちょうどオーソン・ウェルズ『上海から来た女』のミラーハウスのシーンのように。
脚本、撮影、編集にいたるまであらゆる面において立体性のある恐ろしい映画だったと総括しよう。
我々はあの殺風景な部屋の向こう側に、途方もなく巨大な王国を見たのだ。
包摂と排除の話
自分にとって重要な意味を持つ相手との関係性はときに人を惑わせる
アキが嫉妬したノドカとナオトの関係、たしかにアキの視点、映画の観客の視点からは破綻したかのようにも見える
(多分既に崩壊してたのに)アキが来たことによって崩壊したかのように見せるミスリード、(特に布を買いに行く車内からのナオトの激怒、東京に行ってしまってブチ切れたのかと中盤までずーっとミスリードされてたのにまさかのノドカの煙草!?)ファミレス、小川沿いの道での車内、アキに子どもを預ける
ノドカはお嬢様を演じてきたのか、???
子どもの無邪気さがアキを狂わせる
無邪気さはときに領域を破壊する
関係を拡張しようとするナオトの試み、野心は破綻を招く
嫉妬と後悔、あるいは認めたくなかった事実の正しさ
あるいは時間のようなものかも、
冒頭のアキの言葉
現代における基本的な刑罰である自由刑とは犯罪者から身体の自由を奪う
身体の自由を奪うことはつまるところ人間の活動を思想活動、思考に縛り付けることであり、裁きのもたらす償いとは経験の強制的な反芻であるということ
アキが裁きは済んだ、と発言したのは自らの中でそうした思考の反芻が無数に行われた、という意図の発言
繰り返し演技を振り返ることは役の内面化であり、それは思考の反芻なのだろう
監督に関して
役者が何度も繰り返し演技を繰り返すことを観客にさらされることは屈辱的なことであろう
役者はそうした恥を重ねる一方で監督は何の代償も負っていない様に一見してしまう。OKを出すのは監督であり、果たしてそれが脚本が描き出す最大値なのか、それは疑わしい。これが最大値なのだと、迷いを振り払う役割、それこそが監督に求められた負い目
もし役者からやっぱりこうじゃないと思う、とでも告げられればそれは一種の失敗だと言える。そういうシーンも欲しかったといえば欲しかった
しかし、なんといってもこの構想を思いついた時点で今回の大スターは監督であり全てを帳消しにする大功績でしょう
映画が文章と決定的に異なる点は制作側が思い描いたモノを観客とかなりの精度で共有できるという点である。小説が基本的に読者の経験に依拠するのに対して、映像を用いれば同じ絵を共有できる。解釈の余地を狭めることになるとしばしば批判の的にされるがそれは間違いなく映画が持つ強みであり、観客が体験したことのない情景を忠実に共有できるのである。この映画はそのメリットをしっかり理解していて観客と共有したい景色については映像のカットが差し込まれるのである。
青い橋、田舎の商店街を抜けてモールへと続く道、駅、庭。
素晴らしい、、、
役者に関して
何もないところに何かを生み出すこと、それをこんなに完璧にこなしてしまうの本当にすごい
同じ台詞をあんなに演じ分けられるのは、、、
そうした努力は完成品としては(シナリオとしての映画)は結実しないと知りながらあれだけ真摯に取り組めるのも本当に脱帽
一度見つけた正解を見失いつつもまたそこに戻って来る、そして、それ以上を見つける素晴らしさ
見ている観客的にはこれ正解じゃね?と思ったらその上があった
軽率な称賛を馬鹿にされた感じ笑笑
出直します
やはりプロはすごい
シナリオブック、買えば良かったかな。
いや、知らないほうが幸せなこともあるパターンだと信じて諦めよう
脚本に関して長々書きすぎたが、やはりなんといっても魅力は映画としての手法だろう。色んな映画をこれで再考してほしい笑笑