ダウト あるカトリック学校で プロット

1964年、ニューヨーク・ブロンクスにあるカトリック系教会学校の校長シスター・アロイシスは、進歩的で生徒にも人気のあるフリン神父が学校で唯一の黒人生徒と不適切な関係を持っているのではないかと強い疑惑を抱く……。トニー賞とピュリッツァー賞をダブル受賞した舞台劇を劇作家ジョン・パトリック・シャンリィが自ら映画化。メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン、「魔法にかけられて」のエイミー・アダムスらが厳格な聖職者たちを熱演。

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ダウト あるカトリック学校でコメント(20)

Gssmohxpnki
Gssmohxpnki
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映画「ダウト−あるカトリック学校で−」
(ジョン・パトリック・シャンリィ監督)から。
舞台は、1964年のニューヨークにあるカトリック系教会学校。
ほんの些細な言葉から、ある「疑惑」を抱いたシスター・アロイシス。
それが、段々、心の中で広がって最後には「確信」に変わる。
「疑惑」とは、
本当かどうか、不正があるのではないかなどと疑いをもつこと。
「確信」とは、固く信じて疑わないこと。また、固い信念。
「勝利を確信する」「確信をもって言う」などと使われるのだが、
その2つの間には「妄想」があるはずだし、
「真実性を疑うこと、確信が持てないこと」の意味で「疑念」があったり、
自分の考えが正しいと思える証拠を見つけ「自信」が芽生えたりする。
そして、多くの状況判断から「確信」へと変わっていくのが、
人間の心の動きだと思うのだが・・映画では残念ながらそこまで語られない。
今回は、誰が何といっても考え方を変えないわよ、という
「堅い信念」みたいなものに感じられた。(それが「確信」なのかもしれない)
私も、実はその違いがうまく説明できないのだが・・
「疑惑」が「確信」に変わった瞬間を、理解できなかったので、
やや、消化不良に終わってしまったのが、残念である。
主演の「メリル・ストリープ」と「フィリップ・シーモア・ホフマン」が、
お互いを罵倒し合うシーンは、
大きなスクリーン、大音響で観たのからかもしれないが、
その勢いに圧倒されたことを付け加えておきたい。
Snopskhigmx
Snopskhigmx
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DVDを借りて観た。本編を見終えた後、監督の音声解説付きでまた全編通して観てしまったほど引き込まれた。監督の語る子どもの頃の思い出や、製作中のエピソード一つ一つもまた本編同様に面白く、どのシーンにも愛情と情熱を込めて創り上げたことが解った。「映画や舞台を見終えた後、本当の映画が始まる。そんな映画にしたかった。観客たちがそれぞれに違った視点から考えや感想を議論しあうことに意義がある」という監督の言葉も印象的だった。

2回観ると、初めは話に夢中で気づき損なっていた音楽や映像の美しさの細部を堪能できた。それらが全く本編に対して雑音にならず、一体となって映画になっていたということも賞賛に値する。

疑いを胸に抱いたその日からは、どんなに、愛情が…あえて語られない愛情が…こもった行為だろうと、悪意を持って解釈されてしまう。純真な者でさえも。このことの恐ろしさ、悲しさが描かれていたと思う。

メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの2人だけだったら、あまりに重苦しく出口の無い話だったと思う。エイミー・アダムズの存在がとても爽やかだった。シスター・ジェームズの持つ、人間の善性への信頼。その真っ直ぐな瞳が、最終的には物語全体を貫き、救いをもたらしていると感じた。

またドナルドのお母さん、ミラー夫人の演技は物凄かった。息子への信頼と愛、懇願と諦め…台詞の一言一言が彼女の表情と共に胸に迫った。

映画の最後、メリル演じる校長が、「未踏の雪」のようなシスタージェームズを前に、自身の猜疑心の重圧に対する苦悩を堪えきれず露わにするシーンは忘れ難い。

神父が去り、一見晴れ晴れとしたような顔をシスタージェームズに見せてみるのだが、やはり自分自身を偽りきれず、堰を切って涙がこみ上げ泣き崩れる姿が哀れだ。
「悪を追放するためには、七つの大罪のひとつ『疑い』を犯し、嘘をつき、神から遠のいても止むを得なかった」と自分に言い聞かせ、その信念のままに行動してきた校長だった。だが、その信念は高潔な動機からではなく、本当は、神父に対する嫌悪感、彼に勝利したいという欲求、教会の権力への反発など、ただ醜い私欲から生まれたものではなかっただろうか?…この問いこそが、彼女が拭っても拭いきれずに苦しみ続ける「疑い」なのだと思う。

そのシスター・アロイシスが苦しみを露わにした瞬間、彼女自身もか弱い人間で救いを求めていると悟ったシスタージェームズが、さっと近寄り、ひざまづいて手を取り慰める…というシーンから、監督の人間への愛情、信頼、赦しが伝わってきた。
Shsmwoohnade
Shsmwoohnade
ほとんど、3人による言葉の応酬だけで物語が進んでいく。焦点はフリン神父が不適切な行動をとったのか否か?それだけであり、大きなどんでん返しが用意されているわけでもない。いちど疑い出したら思考に歯止めがかけられない校長。真相をなかなか明かさない神父。なにを信じればいいのか自信のないシスター。主役3人の演技力に頼るしかない構成であり、それだけに、このキャスティングは大いに楽しめる。
この作品、現社会にも通ずるものがある。疑いを持つと独自の調査も論調もなく攻撃を仕掛けるマスコミ。叩けばひとつやふたつ後ろめたいこともあるだろう政治家の困惑。その両者に振り回される国民。大沢代表とか地下二階とか・・・そんなような名前を思い出しながら観てしまった。
この作品、悪くはないが、“懺悔”だの“寛容”だの宗教の枠組みで物語れるものだから、いまいち世界に入り込めないのが難点。希望としては、教会学校を舞台に借りた、もっとオープンなミステリー映画に徹して欲しかった。劇作家が自ら映画にしたというところに落とし穴がある。
Ehiderogna
Ehiderogna
「疑い」のままお話が終わってしまう
Hxogsmisnkp
Hxogsmisnkp
証拠の無い疑惑の顛末の一部始終を、校長室の隅に立ち尽くして呆気に取られて見てきたような、不思議な感じなのです。
一流俳優の熱演の力はもちろんですが、人の目の高さからの映像が多いせいでしょうか。舞台を得意とする監督の、臨場感を大事にするという意図があるなら成功のように思います。

少ない登場人物のそれぞれに心が残って、もやもやした感じでスッキリしませんが、これを余韻というのでしょう。