ストーカー(1979)

6.9/10
合計14件のレビュー
ジャンル   プロット
ランタイム   00分
言語   まだ情報はありません
地区   ソ連
劇場で   10月31日 1981
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ストーカー(1979) プロット

ある小国を舞台に不可思議な立入禁止の地域である“ゾーン”に踏み込んだ三人の男たちの心理を描くSF映画。監督・美術は「鏡」のアンドレイ・タルコフスキー。アルカージーとボリスのストルガツキー兄弟の原作「路傍のピクニック」を基に彼ら自身が脚色。撮影はアレクサンドル・クニャジンスキー。音楽はエドゥアルド・アルテミエフが各々担当。出演はアレクサンドル・カイダノフスキー、アリーサ・フレインドリフ、アナトリー・ソロニーツィン、ニコライ・グリニコなど。

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ストーカー(1979)コメント(13)

Hsknpsoximg
Hsknpsoximg
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退屈で疲れた眠かった。

一応ゾーンの部屋というゴールがある旅なので、例の部屋に入ったらどうなるんだろう、ハッピーエンドか、はたまた破滅か?と色々想像膨らませていたが、そんな想像をした分だけ疲れた。

どうでもいいから、とにかく部屋に入っちまえよ!と言いたい。

人間の真相心理的な希望を叶える部屋…ゾーンという特殊な設定を用いることで、人間の幸福とはなんなのか、自己実現とは何なのか、そもそも自分の根元的な欲望は何なのかを把握しているのか、そしてそれを叶えることは幸せを意味するのか…
等々、ゾーンに向かうメンバーで話し合い、あるのか分からん真理を追及することが主題になっている。

惑星ソラリスも、人間の後悔やトラウマ的なものを具現化する惑星、という哲学装置を用いて、愛とは何か、幸福とは何をもって幸福とするのか等議論をしていく映画であった。

そういった点ではよくにている映画。
ただ、ソラリスよりも雑多でとっちらかった感があり、最終的に放り出された感じがあって納得できなかった。
Acgienbcteelietrx
Acgienbcteelietrx
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このフィルムに登場する人物の立ち位置は様々だ。

神を信じようとする男
神の恵みに生きる女
神を疑う作家
神のことなど考えもしない教授
そして神に遣わされた子供だ。

正直このフィルムを星の数で評価するなどとても無理だ。だから敬意をこめてせめて星5つを献上したい。

初めから終わりまで、このフィルムが映し出す絵には隅々まで生命がうごめいている。寡黙にしてただそこにあるだけのものを、カメラを通して見つめたとき、言葉にならない訴えを身体じゅうで受け止めることになる。

水の中に沈んでいる宗教画、コイン、そして拳銃、、、それをカメラはじっと写し撮る。なぜ、水の中から拾い上げない?このフィルムは、それらすべてが世俗的な意味のないものだとでも言いたいのだろうか?

疑問はまだ続く。なぜ、三人は三人とも"部屋"に入らず、引き返してきたのか?作中では作家が「自分の腐肉など見たくもない」とはっきり言った。しかし、作中の理由がそうであっても、それはフィルムとして"部屋"に入らない理由にはならない。神秘は神秘のままに残しておくのが正解なのか?それとも、作家の言うように"部屋"の持つ神秘性のメカニズムを論理的に瓦解させることに成功したからだろうか?

この映画の最後、、、口もきけず、歩くこともできない子供がテーブルのコップを、手を使わずに動かし、床に落下させる。そしてそのタイミングで近くを通過する列車が、その振動でテーブルに残ったコップをゆらす。

超能力も、列車の振動も、ともに机上のコップを動かしたり揺らしたりすることの出来る力を持っている。

なんのことはない。答えはすでにそこにあったのだ。危険を冒してゾーンにいかずとも、人々が求める救いであり、論理であり、力であり、それらは全て一体となった形で、我々のごくごく目の前にずっと存在していたのだ。はるばる探し求めた幸せの青い鳥が、実は家の鳥かごの中にいたというストーリー――それが真実であるということを、このフィルムは3時間近い尺を使って、ずっと我々に訴えていたのだ。

このDVDのジャケットには「未来の希望」という一節がある。見ようとさえすれば、本当に求めているものはすでにそこにあるということを、言おうとしているのかもしれない。

最後に全体を振り返って見ると、この世に生きていること自体がすでにセンスオブワンダーということなのかもしれない、と思えた。
Urdddrsaietnnet
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タルコフスキー節
美しい水、もや、色彩、構図・・・・それは変わらない

映画のテーマは共産主義政権下の旧ソ連への体制批判
そして共産主義に於いて否定された信仰の力と希望の主張だ

映画は科学と芸術のエリートの視線からも
名も無き大衆の視線からもそれを訴えかけている

荒漠たる不合理で危険に満ち鉄条網で厳重に封鎖されているゾーン、それは共産主義ソ連の当て擦りだ
願いが叶う部屋は共産党の暗喩だ

収容所送り、下手すれば命すら危ない
当時のソ連の中でこれを表現する映画を撮ることはそれを意味してる

そして共産主義において否定されている信仰こそ絶えさせてはならない
それが精神の自由への道だとの強い主張を行っている

SFの体裁で自国ソ連の共産主義体制を強烈に行っている映画なのだと思う

ただ余りにも冗長過ぎた
苦行ですらあった
それもまた監督の狙いか
そのような中に共産主義ソ連の体制内で我々はそのような人生を暮らしているのだと

そしてあきらめろと
エリートたる教授も作家も願いが叶う部屋には結局楯突けない
作家は取り込まれることを恐れ
教授は爆破を試みながらも自ら断念し、
大衆たるストーカー自身もそれを阻止しようとする
女房はこれもまた運命だ仕方ないと独白する
ものを考える力と行動の自由が不自由な娘はソ連の国民だ
見つめて念じるだけでコップを動かす超能力が有るかのように見えて、実はそうではない、見てるだけ考えるだけで全く無力でしかないのだ
ソ連共産党政府の強大な国家権力のメタファーたる長い列車が驀進して通過してゆくのに何ができるというのか?あのコップのように震えるのみだ
それを冒頭と終幕で長々と見せつける
それでもそこで女房と娘を肩車して生きて行くしかないのだ
肩車は家族への責任が政治的な重荷であり理解してほしいとのメッセージだ
そしてゾーンから連れ帰った従順な犬
それはこの映画を見た当時のソ連国民だ
Gpimnxkshso
Gpimnxkshso
内容がとても深い。哲学的な内容で、全てのセリフや会話がいちいち興味深くて引き込まれた。その中でもクライマックスのゾーン部屋前の3人の会話は圧巻だった。ロールプレイングゲームの様なストーリー展開も面白かった。

演出が芸術的で唯一無二。まず画の美しさが半端じゃ無い。どのシーンもS級芸術作品の様な美しさ。
音楽の使い方も凄い。列車の通る雑音の中に微かに聴こえてくるクラシックミュージック。こんな音楽の使い方は初めて観た!映像のセピア色とカラーの使い分けも秀逸で、ラストシーンの奇跡を演出したカラー&微かに聴こえてくる「喜びの歌」は鳥肌ものだった。「地獄の黙示録」の「ワルキューレ」や「北の国から 2002遺言」のドヴォルザーク「新世界より」と同じくらい鳥肌の立つクラシックミュージックの使い方だった。またラストシーンでは、奇跡が起こったにも関わらず娘が退屈そうな表情をしているのが印象深かった。奇跡は起こったが、その願いは母親のもので、本人のものではなかったということか。こんなにも美しく奥深さも兼ね備えた完璧な終わり方はそうないんじゃないだろうか。
タルコフスキー監督の思想と超高次元の芸術性に圧倒された。

念願の劇場にて2度目の鑑賞。水に犬、タルコフスキー監督の世界観。音の凄さに身震いする。突き詰められた効果音に、列車のカタンコトンカタンコトンという音の中から聴こえてくるクラシックミュージック。芸術、哲学、無意識の自分、本質的な自分。人間の脳は10%しか使われていない。残りの90%は未知なる無意識。意識や意志の思い通りにはいかないのが人間の脳。皆、意識的な願望とは違う本質的な願望が無意識の中には眠っている。ゾーンはその人の一番強い願望を叶えてくれる神聖な場所。ゾーンにたどり着いたとしても、大概の人間は自分の意識出来てない深層心理にある強い私利私欲が叶えられてしまう。そしてその欲望の醜さに失望する。しかし奇跡は起きた。母の願いが通じたのか、その願いは娘のことを思う純粋な愛だった。しかし...、その奇跡の恩恵を受けた当の娘はどうでもいい様な浮かない表情。子の心、親知らず。親の心、子知らず。純粋な愛の奇跡が起きても尚思い通りにはいかない...。人生は難しい...。人間は難しい...。
EtmircnAaype
EtmircnAaype
こういうエンディング、大好きです。
色は、主人公の希望なのか。それも意識しているいないに関わらず。
妻の独白もそれを裏付ける。不幸とは、幸福とは何か。科学者、作家、ストーカーが語りを繰り広げる。

映画は、哲学映画、宗教映画という感じ。廃墟の中で延々と語られる言葉。

原作「路上のピクニック」もハヤカワSFで購入して読んだが、確かにだいぶ違っている。自分にとっては、両方とそれぞれ楽しめるものだったので、得した感じだった。
小説は、宇宙人が通った後に、悪意も善意もなくただ少し散らかして行ってしまった物達が、地球人にとっては、全く理解できないが便利だったり恐怖だったりという状況を描いている。それまでのSFでの宇宙人は、攻めるにしろ友好的にするにしろ、少なくとも地球を見ていた。しかしこの小説では、そこに地球があったことすら認識しているか怪しいのだ。

映画は、そちらのメッセージは大胆に削り、もうひとつのメッセージである、幸せとは?の方を中心に据えて、ゾーンと神を重ね合わせながら語っていく。
だから登場人物は、学者、作家(芸術家)、ストーカーすなわち宣教師なのだ。ほんとうに始まりの宣教師は、ストーカーのように神の元へ案内するだけの者なのだろう。学者、作家が、ゾーンに対してどのような姿勢をとるかは、観てのお楽しみ。

小説の方も、未知の科学技術を凝らした道具がいろいろ(話に)出るんだけど、淡々と静かに流れる。道具は話されるけど姿を見ることはないから。それでも小説はスリルを切り抜ける盛り上がりもあり、SFだった。映画は、そういう部分を極力排除した脚本で、人生観についてつきつめていく。

学生時代に名画座で観た本作品に30年ぶりに再会。20歳の自分が、「最高の映画のひとつだ」と感じた気持ちを思い出した。若さならではの面があったんだなあ。今は4.5にしておきます。思い出させてくれて、アップリンク、ありがとう。