福島 生きものの記録 シリーズ2 異変
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10月11日 2014 劇場で
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05月13日 2023 劇場で
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12月05日 1987 劇場で
映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事
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生きものの記録コメント(12)
ところが、この作品のあとより、まったく同じテーマをもとにした映画を製作した監督が出てきた。その代表例が、ベルイマンの「冬の光」とタルコフスキーの遺作「サクリファイス」だ。その二作を観たあとにもう一度、「生きものの記録」を観ると、原爆に怯える主人公の狂気が狂気に見えず、自分と同じ感性の者に見えてきて、はじめてこの作品の良さを発見した次第である。
「生きものの記録」がなぜヨーロッパの映画監督の共感を得たのか。それは、多分、神が存在しているか否かについて、考えさせられたからだと思う。人間の造った狂気の沙汰のような兵器には、神の存在など無価値、と思わざるおえない。その危機感が「生きものの記録」と同じテーマの映画を作らせたような気がする。
だから、黒澤もこの作品では、もっと神に言及してみてもよかったのでは、と思う。そうしていれば日本人たちの見方も違ったものになっていたような気がする。ただ、世界で唯一、原爆の怖さを知っている民族なのだから、神に関係なく、黒澤が放つメッセージに、もっと素直に気づかなければならなかった、と思うのだが...。
それでも極力原爆から逃れるため全てを捨てて海外移住を試みる主人公と、
それを止めようとする家族を描いた物語。
オカシイのは主人公ではなく、
原爆という存在を暗に受け入れてしまっている家族ではないのか?
というテーマだけど、
残念ながら主人公がどう考えてもオカシイと思う。
そこを覆すほどの描写はなかった、というのが正直な感想。
アメリカのビキニ環礁沖水爆実験により、第五福竜丸を初めとした
1000隻以上の漁船がいわゆる“死の灰”を浴び、被曝した。
その翌年に公開された映画が黒澤明監督作『生きものの記録』である。
原爆投下から僅か9年後の愚行に日本中が怒りを感じていた時期だったのだろう。
あらすじ。
炭取扱業で一財産を築いた主人公・中島喜一は自分の息子達から告訴された。
『近い将来、日本中が放射能に汚染される』という恐怖に憑かれた喜一は、
家族に無断で全財産を注ぎ込んで近親者全員のブラジル移住を計画。
それを知った親族一同が、財産の管理権を喜一から剥奪する為の裁判を起こしたのだ。
財産を奪われ、愛する家族に疎まれ、何よりいつ襲い来るかも分からぬ
放射能の恐怖に、次第に精神のバランスを崩してゆく喜一。
そして迎える、あまりにやりきれない結末。
物語後半から僕はもうずっと涙ぐんで映画を観ていた。主人公が本当に憐れで堪らなかった。
喜一は偏屈で、身勝手で、強権的な男だ。
だが愚直なまでに家族想いな彼が衰弱してゆく姿は見るに耐えなかった。
暑さに喘ぐ家族に、いつの間にやら買ってきたジュースを配る姿。
雷鳴を爆撃と勘違いし、とっさに赤ん坊に覆い被さる姿。
プライドもかなぐり捨てて家族に頭を下げる姿。
この老人は死にもの狂いで家族を守ろうとしただけだ。
けれど行動があまりに極端で、真っ直ぐ過ぎた。
いや、『正気過ぎた』とも言えるのか?
劇中のある台詞がいやに耳に残っている。
「私は正気でいるつもりの自分が不安になるんです。
狂ってるのはあの患者なのか、この時世に正気でいられる我々がおかしいのか」
核エネルギー利用の是非について僕個人の意見を述べるのはよそう。
議論が紛糾するのは目に見えている。
だが劇中での喜一の言葉をそのまま借りて、これだけは言っておきたい。
「バカなものをつくりやがって!!」
核エネルギーなんて、最初から作られなければ良かったのだ。
原爆投下から70年近くも経ったのに、核への恐怖は薄れるどころか
益々切実なものとなって僕らの目の前に突き付けられている。
監督、貴方の映画は未だに色褪せておりませんよ。
そんな誉め言葉を語った所で、貴方は哀しい表情を浮かべるだけでしょうか。
今日8月15日は終戦記念日だ。
忘るるなかれ、先人達が僕らに語り継いでくれた恐怖と哀しみを。
重い映画だが、観る価値は十二分にある。
一つは同年秋にあの「ゴジラ」として
もう一つはそのさらに一年後の本作として
原水爆は怖い
しかし劇中にあるようにどこへ逃げたって同じだ
ヨーロッパはもっと怖がった筈だ
核爆弾を互いに身のそばに置いて24時間365日何時でも即時にぶつけあえるようにして冷戦の全期間を過ごしていたのだから
日本の比ではない
21世紀の日本はどうか
その後当時は平和勢力と呼称していた隣の大国が核兵器を作り、大気圏内核実験を行い死の雨を日本に降らせた
今は軍事大国化して周辺国を圧迫しているだけでなく、我が国の島を奪おうと日々チンピラ的な行動をしているのも目撃している
さらに目の前の半島には、核爆弾が完成したといいそれをもって日常的に汚い言葉で恫喝を繰り返している国がある
それを日本に向けて打ち込む位の中距離射程のミサイルならば既に無数に持ってもいる
つまり
もしかしたら冷戦時代のヨーロッパより核戦争が起こりうる情勢なのだ
そして、私達はもうすでにフクシマの危機を体験している
経験済みなのだ
原発事故の被災地の人々が避難で全国各地に散って未だに故郷に帰還もできないでいることは誰もが忘れてはならないことだ
また東京は原発事故の被災地と比べれば遥に軽微な放射線だったにもかかわらず、あの時慌てふためいて仕事もなにも投げ出して、西日本や海外まで逃げた人もいたことも知っている
だがそれはごくごく例外的な人だ
本作の中島老人みたいな人物だ
大多数の人々は浄水場の放射線レベルがどうとかのニュースを尻目に毎日目の前の仕事に打ち込んで、復興を続けたのだ
つまり本作から半世紀以上を経過して我々は既に答えを知っている
立ち向かわないから怖いのだ
逃げるから怖いのだと
夢想的に平和は他力本願で祈るだけで達成できるものだと思い込んでいるから怖いのだ
ゴジラでは立ち向かったから未来があった
本作は狂気に逃避したのだ
果たしてどちらが尊い態度なのか?
それを考えされられた
物語は親類縁者一同が中島喜一を準禁治産者宣告するよう家庭裁判所に申し立てるという展開で始まる。気が狂ったように水爆実験に怯え、家族を皆ブラジルに移住させたがる男。ただ、準禁治産者の問題を家族会議で話し合うのもどうかなあ~と感じつつ、結局は金持ちの逃げだろうと思えだした。この頃だと設定も斬新だったんだろうけど、後に核シェルターブームが起こったこと同じで、インパクトが弱い。
世界中どこへ行っても放射能の影響はあるのだと痛感。その後のチェルノブイリ事故を考えても先見の明はあったんじゃないか。