ボヴァリー夫人(1991)
プロット
フランス
05月02日 1992 劇場で
ボヴァリー夫人(1989・2009)
プロット
ロシア
10月03日 2009 劇場で
パンと恋と夢
プロット
イタリア
07月09日 1955 劇場で
パンと植木鉢
プロット
イラン・フランス合作
07月22日 2000 劇場で
人魚と潜水夫
プロット
メキシコ・スペイン合作
01月01日 1900 劇場で
モンソーのパン屋の女の子
プロット
フランス
04月24日 2021 劇場で
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ボヴァリー夫人とパン屋コメント(20)
フローベルのボヴァリー夫人は読んだことないですけど、あらすじは多少知ってる程度です。楽しく見てきました。
R15+にしてはエロス描写は控えめでしたが、まぁ登場人物たちの行いはどいつもこいつも非道徳的なので、中学生以下お断りなのかもですね。
ジェマボヴァリーの夫だけがかわいそうでしたね。
ジェマボヴァリーの美人すぎないけど官能的な体つき、浅薄さに見とれました。ほとんどマルタンと同じ気分で唾を飲むような気分で見ました。浅はかで欲に忠実な美しき人妻。英国アクセントもいいかんじでした。
絵的に一番大胆なのはコートの下にレースの下着だけで不倫相手に会いに行くところですね。まぁ楽しそうな情事でした。
ハメながら罪悪感に苛まれる、みたいな悲劇に酔った不倫劇は見ててイライラしますが、楽しそうだと嫌悪感が薄いです。
で、不倫相手が、「胸騒ぎの恋人」で男女それぞれから惚れられながらいい加減にあしらった美しき悪魔のニコラ役の役者でした!こんなところで再会出来ましたね、なんかうれしい。ブロンドの巻き毛とタレ目と素敵な肉体で目の保養でした。
法律の勉強をするためにパリから別荘に来た元貴族?のボンボン役でした。ハマってます。
主人公のマルタンジュベールは近所に越してきた英国人のボヴァリー夫人が小説「ボヴァリー夫人」と同じ運命を辿りやしないかとヒヤヒヤして、そしてボヴァリー夫人のエロスにムラムラしてストーキングします。ヒ素入の殺鼠剤に反応しすぎるのは小説のボヴァリー夫人がラストでヒ素で自殺したからなんでしょうね。
自殺されてなるものか!と迷惑な奮闘をするんですが、結局マルタンの作ったパンを喉に詰まらせて現実のボヴァリー夫人は死んじゃうんです。
わーなんてヒドイ話なんだ!でも笑ってしまったやないか!ストーキングすれすれの思慕がこもったパンが、狂気になっちゃった!
マルタンは不倫相手を語った手紙でボヴァリー夫人と不倫相手の仲を裂こうとしたり、犯罪も犯しているわけですが、お目目ひんむいて凝視する表情はいかれているけど可愛くも思え、困ったもんです。
さて、ボヴァリー夫人が亡くなり、また隣の家に新たな住民が来たのですが、マルタンの息子曰く、「ロシア人で姓がカレーニナだよ」とのこと!まさかアンナカレーニナでっか?と、またマルタンのビョーキな暴走が始まる?という場面で終わります。
ちなみに新しい隣人はフランス人夫婦。マルタンの息子がオヤジを騙したんです!
成績悪いとかテレビゲーム禁止とかでイイトコなしだった息子が、最後でやってくれました。
笑ったらあかんのでしょうが、おかしくておかしくて、結構笑いました。
この映画は(も?)性格悪い人むけですね。
R15指定って演出が必要だったのかしら?
21世紀の不倫劇を描いたなんとも凝った映画だ。
映画はやはり小説を読んでからでを観たほうが楽しい。
この映画はドラマでもなければ、「ボヴァリー夫人」を描いているわけではない。
19世紀の田舎を抜け出したがる小市民と現代の都会から田舎をあこがれる小市民を対比させている。
さらに従来からあるフランス人とイギリス人の違いをユーモアを持って明確にかき分けている。
しかし、この手の映画は日本では流行らない、特に男性陣は苦手だろう。
何故なら、フランス人が持つ独特の女性観、
その好色的なくすぐりを距離間を持って楽しむことは結構難しいからだ。
人のいい中年おじさんの持つお節介に、我々日本男児、どこに共感を見つけたらよいのだろうか。
そもそも、フロベールの「ボヴァリー夫人」を今の時代、面白いと思う人が何人いるだろうか。
この映画は凝っていると言いたかったのは、実はもう一つ背景となる映像にあるのだ。
映像化されたルーアン大聖堂やその周辺の中世以来の小さな街の住宅とインテリア。
そこはまさにフロベールが描きたかったノルマンディーの自然環境と建築の美しさそのものだ。
といってもボク自身この場所を一度でも訪れた訳ではないのだからすべてが想像。
しかし、映画は19世紀のリアリズム小説の風景はこんな世界だったのかと思わせてくれるようだ。