トニー滝谷メイキング「晴れた家」
プロット
日本
02月05日 2005 劇場で
トニー・マネロ
プロット
チリ・ブラジル合作
01月01日 1900 劇場で
滝の白糸(1952)
プロット
日本
06月12日 1952 劇場で
トニー・ローム殺しの追跡
プロット
アメリカ
06月22日 1968 劇場で
渋谷シャドウ
プロット
日本
11月28日 2020 劇場で
死の谷
プロット
アメリカ
05月09日 1950 劇場で
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トニー滝谷コメント(8)
原作も脚本も知らないのでわからないのですが、募集広告でやってくる久子(宮沢りえ二役)は妻英子と瓜二つだったのでしょうか?彼女を面接したときのリアクションから察すると、驚きの表情が全く感じられなかったのでそっくりじゃないと思ったのですが、もしそっくりだったのなら、ラストのシーンでのトニーの思いきった行動も若干違った心理になると思うのですが・・・
「2005年5月映画館にて」
映画を見るというよりも、一つの村上春樹作品として楽しむべき。
眠たくなるけど、素敵な映画です。
それらを見事に、スマートに、原作への敬意を持って映像化することに成功している。
ナレーションとセリフをリンクさせる演出や、同じ屋外でセットを作り替えるだけの風通しの良い画、イッセー尾形と宮沢りえの乾いた存在感など、村上小説を読んでいるかのような観劇感である。
スジを改めて荒く紹介するなら次のようになる。終戦直後に生まれた主人公は、父親の滝谷省三郎と親交が深いアメリカ将校によってトニー滝谷という名前をつけられる。その風変わりな名前によって孤独な少年時代を過ごし、青年になってから後にイラストレーターとして活躍することになる。彼は相変わらず孤独を愛好する大人として育つのだが、運命的な女性との出会いを果たして結婚することになる。しかし、彼女は病的なまでに洋服を買い漁る悪癖を備えていた。トニー滝谷はその買い物依存症を窘めるが、ある日彼女は自動車事故で亡くなる。トニー滝谷はその心の空白を埋めるべく、妻と同じ体型のアシスタントを雇い妻の服を着ることを条件として働かせる……これがプロットである。
改めて観直してみたのだけれど、やはりイッセー尾形氏の演技が冴えていると言えるだろう。良い意味でも悪い意味でもアクのない、マッチョらしからぬ(村上春樹作品特有の)男の主人公を巧みに演じていると思う。それでいて繊細に過ぎるというところもない、イッセー尾形氏らしい存在感を湛えている。役を食っているというか、原作の雰囲気を台無しにすることなく、しかしそこはやはりイッセー尾形氏らしい演技で魅せるのだ。大した起伏のあるスジではないが故に、その「何処を切ってもイッセー尾形」という安定した演技はなかなかのものと思わされる。
しかし、やっぱりこの映画を支えているのは宮沢りえ氏ではないかと思う。今回改めて観直してみて彼女がひとり二役という非常に難しい演技に挑み、要求されているハードルをクリアしていることに驚かされるのだ。初見の時はなんの予備知識もなかったため別人だと思っていたということは以前にも書いたが、今回観直してみても同一人物だとはなかなか信じ難い。役割をドラスティックに変えているというのではないのだけれど、それでも二面性が巧く引き出されているように感じさせられる。これは監督の腕に拠るものなのだろうか?
私は映画をどうしても「スジ」からしか語れない弱みを備えているので、次々と紙芝居のように場面が転換して行くこの映画特有の語り口についてはなにも語れないのだった。だから結局はこの映画をどう解釈するかという方向に話が向かってしまうのだけれど、この映画は(他の村上春樹作品と同様に)「孤独」であることをどう描いた作品なのかというところに行き着くのではないかな、と思うのだ。トニー滝谷は孤独な人物として生きて来て、妻との出会いにより「孤独」であることからは逃れられる。だが妻の事故死によりまた「孤独」であることを強いられる。その「孤独」を際立たせるものとして妻が残して行った夥しい数の服が描かれるのではないかと思うのだ。誰からも着られることのない衣服。これほど存在価値を失った「孤独」を象徴するものもない。
若干ネタを割るが、アシスタントとして雇った女性も解雇されてしまい、父親の滝谷省三郎とも死別してしまう。あとに残されたカビ臭いヴィンテージもののレコードを売り払うと、今度こそトニー滝谷は独りぼっちになってしまう。その途方もない空虚感が、この映画の鑑賞後の気分を重くさせる。明確な希望が描かれるわけではなく、絶望というものも描かれない。まさにどっちつかず……という印象で、解釈はこちらに委ねられている。余韻の重さは只者ではない。「孤独」から始まった物語は「孤独」で終わる。円環……というわけでもないにせよ、喪失感だけがこちらに残るエンディングとして成立しているのではないかと思う。
村上春樹作品の映画化は非常に難しい。これほどまでに国民的なベストセラー作家として読まれていながらも、恐らくは村上春樹氏が了承しないからなのであるだろうけど、そもそも作品が映画化されるということも非常に珍しい。私が観た範囲でそれでも辛うじて成功していると感じさせられるのはトラン・アン・ユン『ノルウェイの森』ぐらいだろうか。そして、この『トニー滝谷』もまたその「成功」した部類に入るのではないかと思う。過小評価されていることがもったいなく思われる一作だ。この作品をハルキストだけに独占させるのはこれもまたもったいない。坂本龍一氏のミニマルな音楽も相俟って、小ぶりだがなかなか魅せる作品として結実していると思う。