ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人
プロット
フランス
02月02日 劇場で
オスカー・ピーターソン
プロット
カナダ
02月02日 劇場で
夢みる小学校 完結編
プロット
日本
02月02日 劇場で
同感 時が交差する初恋
プロット
韓国
02月09日 劇場で
COME TRUE カム・トゥルー 戦慄の催眠実験
プロット
カナダ
02月09日 劇場で
復讐のワサビ
プロット
日本
02月09日 劇場で
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生きる LIVINGコメント(20)
公務員がルーティンワークに埋没し、縦割りと先送りと事なかれな官僚主義の中で「生ける屍(Mr.ゾンビ)」と言われた課長が、医師の余命宣告を受けて、自分の生き方・働き方を見つめ直す話。
黒澤明監督の『生きる』オリジナルでは、「ゴンドラの唄」を志村喬が歌っていました。
♪いのち短し 恋せよ乙女~♪
舞台が英国になった本作では、スコットランド民謡「ナナカマドの木」になっていました。
主人公の妻が、スコットランド人だったことを明らかにしていたので、おそらく妻との思い出を抱きつつ、死後に妻に再会したときに誇れるほどの仕事をやり遂げた満足感を表現してるのかなと。
また、オリジナルでは課長の葬式で、部下や関係者がまた課長の亡くなる寸前の行動や動機を疑って、責任逃れの言い訳を繰り返し、課長の手柄を自分たちのものにしていたのが、酔ううちに課長を褒めたたえ、その仕事のやり方や遺志を引き継ぐと誓ったものですが。
本作では、帰りの汽車の中で酔わずにさらっと結論に至るあたりが、英国紳士らしいというか。
その見苦しく長めの葬式のシーンが、比較して短い分、オリジナルより短くまとまっていたことはよかった。
オリジナルは日本人のダメな部分をえぐり、官僚主義の徹底した批判を籠める表現だったんだなと、再認識するのに役立ちました。
カズオ・イシグロの翻案も、ビル・ナイの演技も素晴らしく、本作はかなりの傑作だと言えるのですが、観たらオリジナルの方を観返したくなりました。
140分オーバーで、なかなかハードルが高いですけどね>オリジナル
もっと劇的に描こうと思えばいくらでも出来たのにあっさり終わる。しかし、少し感動している。
音楽が良く、より壮大に演出している。助手の人達が結局変わらないのは皮肉なのだがそれもまた面白い。
次に今作を観ながら感じていたのは、前半は正直イラっとすることもあります。ただ、後半は目頭が熱くなる展開になっています。
ということで、トータルとしては決して低い評価をつける要素はありません。それはやはりビル・ナイの滋味深い味わいの演技が大きいことは言うまでもありません。彼の長いキャリアにおいて、今回のウィリアムズのような物静かなキャラクターもハマり役ですが、結構コメディ寄りのキャラクターを演じている印象も強かったりするし、時にゾンビ役やヴァンパイア役など悪ノリを真顔でやる素敵な英国人俳優の一人だと思います。
そして観賞し終わり、いつも帰り道はレビューを書くために映画を反芻しながら歩くのですが、今回は黒澤監督作品のリメイクということで「今、この作品がリメイクされる意味(意義)」を考えてみました。結果、正直この作品って若者には響かないばかりか、むしろ「年輩」と言われる年代以上に向けた懐古主義で、何なら自慰的とすら感じてしまうことも否めず、ちょっと複雑な思いを隠し切れません。敢えて言うならば、リメイクにあたってこれを現代に置き換えず1950年代にすることによって、作品への感動が成立するのだろうとすら思います。ただ、これは映画の作品性そのものを否定するわけでなく、むしろ(50代の)自分への戒めであることは理解ください。決して嫌いではないんです。でも、正直「キレイゴト」にも感じてしまって。
そもそも、この作品の推進力であり、自分が老い先短いことを知るウィリアムズを変えるのは「若者たち」です。
余命の生き方に迷い、反動的に自暴な言動に走りかけるウィリアムズを目覚めさせるマーガレットは、本当に眩しい存在です。清々しいほど物おじしない態度と、はつらつとしてチャーミングな彼女に「甘える」ウィリアムズ。オジサンである私も十分気持ちは解ります。が、正直、「打ち明け話」はやりすぎですし、それを聞かされた方の身になっていないことに、観ていてハラハラ、イライラします。
そしてまた、社会人になりたてでウィリアムズと僅か1日しか働いていないピーターの達観ぶりに、なんなら、そんなわけなかろうと思いつつ、結局、彼のこの作品における価値観は「こうあるべきという理想」としての存在などだろうと思います。
ウィリアムズが「最期」にかけた仕事は、そもそも彼ほどの経験と立場があれば元から出来たはずで、今どきの価値観ならむしろ、それまでやってこなかったことの方が罪深いと思われて当たり前です。彼が見て見ぬふりをした陳情は山ほど存在したはずで、最期に身を呈して行った事業一つを伝説のように扱うことに、いささか欺瞞を感じるてしまったり。。
いや、いい映画だと思いますよ。でも、私も若者に嫌われたくないし、彼ら目線で考えることもせざるを得ないので、ちょっと厳しめに書いてみました。悪しからず。。
黒澤明監督の「生きる」のイギリスリメイク作品。
え~私、黒澤明監督、もちろん名前は存じ上げていますが世代が違うのでこの方の作品全く観たことありません。
「生きる」を観たことある人は作品比較、否定出来ると思うんですが私この作品、作風もわからなくて・・・正直観ていてしんどかったのが率直な感想です。
作品否定はしません!ただ私との相性の問題。人物達のローテンション、しっとり寂しげなBGMがちょっとキツくて。
面白いとも、つまらないとも思えずまさに「無」で観てました。どのくらい無だったかというと座禅組んだら和尚に肩叩かれない位、無だったと思います!!
さらに例えるならボーっとテレビ観ていてヨダレ垂れてるのも気づかないでテレビ観てるくらい無でした。
何かお陰様で心が鍛えられた気分です!
まさにドラゴンボールZで例えるなら精神と時の部屋で1日過ごしたら、1年修行したのと同じって感じです!オッス!
そびえる高峰に挑んだわけですが。頂にたどり着いたかはともかく、その精神は間違いなく受け継がれていると思います。生きることなく、人生を終えたくない。死を前にした男の痛切な気持ちは洋の東西も、時代も超えます。名作をなぞっただけではない、意味あるリメイクといえます。カズオと73歳の主演俳優、ビル・ナイは米アカデミー賞の候補にもなりました。
筋立てやエピソード、構成は黒澤版をほぼ踏襲。ただこちらの基調はリアリズムで、紳士然として感情を表に出さず人を寄せ付けないウィリアムズの苦悩を、ビル・ナイが抑えた演技でにじませいました。
舞台は第2次大戦終結から久しい1953年のロンドン。市役所の市民課に新人ピーター(アレックス・シャープ)が着任してきます。課長のウィリアムズ(ビル・ナイ)はじめ同僚たちは、問題先送りが仕事のようです。
ある日、子どもの遊び場建設を求め、広場の排水改善を陳情に来た女性たちの案内を命じられたピーターは、役所の中をたらい回しにされて市民課に戻り、書類は保留の棚に放置されてしまうのです。それが役所の日常でした。
お役所仕事にどっぷりつかっていたウィリアムズが、体調の異変から診察を受けたとき、医者からがんで余命が短いと告げられます。彼は絶望し、人生を見つめ直そうと職場を欠勤し、夜遊びにふけますが満たされません。自分の人生の空虚さに打ちのめされるのです。けれども、かつての部下マーガレット(エイミー・ルー・フド)と再会し、人生を謳歌する自由な生き方に刺激されて、職場復帰。廃虚を子供用公園にするために行動を開始するのです。
物語の内容も構成も、オリジナルと細かな描写も重なる部分は多く、キザな帽子やウサギのおもちゃなども出てきます。もちろんブランコも。あえて変えなかったところに、イシグロやオリバー・ハーマナス監督の黒澤作品への敬意を感じました。
ストーリーはオリジナルに忠実ですが、舞台設定や主演俳優のアプローチの違いによって、かなり印象の異なるリメークになりました。狂気すら感じさせた志村喬のギラついた芝居と比べると、いかにも英国紳士然としたビル・ナイのたたずまいはずいぶんお上品に映るのです。
オリジナルで志村喬が演じた主人公は猫背でしょぼくれているのに対し、リメイク版の主人公は背筋を伸ばして威厳があり、周囲から一目置かれています。しかし、余命が短いと宣告された後のうろたえぶりは同じです。最も近しいはずの息子にも打ち明けられない。一人立つナイの姿から、圧倒的な孤独がにじみ出ます。
ナイの演技は、志村喬よりも抑制的に見えます。これについてプロデューサーの一人であるスティーブン・ウーリーは、「面白いことに、日本の笠智衆さんからインスピレーションを得ています。イシグロが笠さんのようなストイックな演技を求めたんです。その方が英国人気質にも近いのではないかと感じました」ということで、笠智衆からのインスパイアだったことを明かしています。
だったら小津安二郎監督の「東京物語」のリメイクはどうだろうと水を向けると、「『東京物語』は女性の人権についての物語です。小津や成瀬巳喜男は、結婚によって女性の人権が失われることを、女性の視点から描いている。素晴らしいと思います。これは、英国に置き換えることは出来ません」とのことでした。残念!
さてウィリアムズが「生まれ変わる」後半の重要シーン。オリジナルでも黒澤監督の才気がほとばしる、出色の場面でした。今作でも見どころです。
しかし作品全体から受ける印象は異なります。脚本を手がけたカズオ・イシグロの筆致は穏やかで、夢中で遊ぶ子どもの姿に仮託し、生きるとは何かと問いかけ、人生がすり切れていく悔恨をにじませる。ノーベル賞作家の面目躍如のところ。
また抑制の利いたビル・ナイの演技と言葉の力は、抑制されたナイの人生の悲哀を味わわせ、見る者の胸に静かに染み込んでくるかのようなのです。
エイミー・ルー・ウッド演じる、はつらつとした元部下の女性とのエピソードもどこか軽やか。50年代のロンドンの街並みや衣装も素晴らしく、日本映画のリメークでありながら、イギリス映画としての見応えもある作品に仕上がっていると思います。
気になるところは、セリフがない間をたっぷりと取り、叙情的な音楽を使って情感を盛りあげてゆく演出は時にけれんが目につきます。黒澤版を意識して力が入ったのでしょうか。ただウィリアムズと息子夫婦の関係や役人気質は現代でもさもありなんと感じられました。そして映画が訴える、人生を充実させるのは自分次第なのだというメッセージは、陳腐には見えずいささかも古びません。
「人生の意味」は芸術表現の普遍的な主題といえるでしょう、ただ、ここまで直截なタイトルも珍しいです。しかし優れた物語は青臭い命題もしみじみと考えさせてくれるものです。映画館の暗闇で浸るのにふさわしい良作といえるでしょう。
オリジナルは1952年に公開されまし。日本は復興の途上にあり、人々は貧しかったのです。同時代を生きた40歳代の黒澤監督は、役所という冷たい組織、ひいては社会そのものに対し、厳しい視線を送ったのでした。
終戦間もないという時代設定は同じでも、今作は復興を終えた現代からの視点が加わる。最終盤、語る順番を少し変えたことで、作品の印象は少し違ったものになりました。人は変わることができのるだ、そんな普遍的で前向きなメッセージを受け止めました。
「THE END」