マダム・ウェブ
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02月23日 劇場で
マッチング
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02月23日 劇場で
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日本
02月23日 劇場で
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03月01日 劇場で
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03月02日 劇場で
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マザーウォーターコメント(20)
違和感なく観れたし
いつも通り、ほのぼのさせられて
暇な休日によく観てます!!
小林聡美さんや、もたいまさこさんが
言うセリフってたまに心に響くといーか
心を楽にさせてくれるんだよね~
京都が舞台なのに
京都っぽさがまったく描かれてないのも
好き!!
ゆるーい、時間と場所と人との関係。
都会でストレスフルな社会に生きていると、こういう暮らし方が、ファンタジーに見えてくる。
でも、どこかにありそうな気がするんだよね。
観終わると、劇中のウィスキーの水割りと、豆腐が食べたくなります。
桜は人を惹き付け、ポプラは種子を綿毛にして周辺を白く染め上げる。
主な登場人物は男性3人。女性4人の7人で構成されている。いやまてよ?ポプラは一体どちらなんだろう?
この作品に登場する全員がひとりぼっちである。
唯一光石研と永山絢斗が、バイトとその雇い主との関係性で繋がっている程度か。他では、小林聡美と加瀬亮は、ウイスキーバーの店主と常連の間柄。
もたいまさこは常にひとりぼっちで食事を取るが、積極的に町中へ繰り出して行く。その為にこの作品では狂言回しに近い。何処へでも入り込んでは、言わば登場人物達の橋渡しの様な役割を担う。
京都を舞台にしながらも、作品自体に京都色は全く見受けられない。いやそれよりも、登場人物達全員が京都弁を話さないどころか、小林聡美のバーを始め、小泉今日子の経営する喫茶店。市川実日子の豆腐屋さんでさえ、地元の人がさっぱりと登場しない。確かに座りの悪い椅子の様で、違和感は拭えない。
だがちょっとまてよ?作品の中でこの舞台となっている土地を、《京都》だと特定している表示もセリフも無かったんじゃなかろうか?宣伝で《京都》を強調し過ぎた弊害で、「京都らしさが無い…」と、こちらで思い込み過ぎているのかも知れない。最も、映画自体に生活色が皆無なのは否定出来ない。主要な登場人物は、数人のエキストラを除き、地元の人々等はさっぱりと出て来ないのだから…。寧ろ必要以外の、削ぎ落とせる情報は総て削ぎ落としたって事だろうか?
京都色が全く無い要素として、小林・小泉・市川の女性陣3人に共通するのは、彼女達が何らかに惹き付けられてこの土地にやって来た“いちげんさん”である事実が他ならない。
みんなこの土地にはまだ溶け込んでいない様に見受けられる。
普通に考えれば光石研等は、老舗の銭湯を経営している地元の人間の様に見えて、実際は違うのかも知れない。その辺りは意識的に隠している様に見える。だから観た人それぞれがどう解釈するかによって、印象が変わって来る。おそらくある程度は意図的に演出されていると思う。
何故みんなはこの土地に集まったのか?小泉今日子は“大事なモノ”がここに有ると示唆する。
それが何か?は、女性陣3人が扱う物から、“それ”は容易に想像出来る。
たまたまそれがこの土地で有り、この面子で有った…と言うだけの事。
違う土地で、違う人物達。違う職業別でも成立は可能かとも思う。
ひょっとしたらみんな過去に何らかの曰く因縁が有り「過去を消す」目的が有った…と考えるのは穿ち過ぎか?
加瀬亮が仕事仲間が帰って来ないと小林聡美に語る際に、「実はワクワクもしているんです…」と。それに対して小林聡美は「人間ってそんなもんだよ!」と達観して答える。
小泉今日子の笑顔の裏には、何らかの人には言えない“匂い”の様なモノすら伺えられた。
ところが、それぞれがこの土地に全く馴染めずにいたのだが、ポプラの綿毛がもたいまさことゆう風に導かれて、みんなの元に綿毛を届ける。
一見赤ん坊を右から左に受け渡す事で、観ていて違和感がつのり「おいおい!」と苛々してしまうのだが、ちょっと自分の身の回りの出来事を思い出して考えてみた。
冠婚葬祭等の際に普段はなかなか会う機会の無い親戚に会うのだが、なかなか共通の話題が見当たらず難儀する事が有る。
そんな、この作品の様に居心地の悪さを感じる時…。そんな時に救世主になりうるのは、赤ん坊等の幼い子供の存在だ!
まさに居心地の悪さの中にも見付かる座りの良さと言えば良いか。
ひとりぼっちの彼女達だが。一歩踏み出し外に出る事で、知らない土地でも知り合いが出来、ポプラの存在で共通の話題から自然と仲間が増えて行く。
彼女達はやっと1つの《コミュニティー》を形成し、最早ひとりぼっちでは無くなった。しかしいつまでも一緒に行動するだけでは全く進歩は望めない。
生きて行く上で一番大事な物は《水》で有る。水は流れを止めてしまうとやがては腐って行ってしまう。その為にも流れを止めてはいけない。
だからもたいまさこは今日も色々なところへと行き、自らの流れを止めない。
「人生は自分探しの旅!」、とは誰かが言った言葉。
余談だが、ポプラの秘密がほんの少し明らかにされるラストは蛇足だと思うのだが
※ ↑ここまでのレビュー自体は観賞後直ぐに書き込んだ物。
その後ネットの様々なレビューを読み、「どうやら単なる癒し系の作品では無いのでは?」との思いが強くなってきた。
参考になった意見として、これは死後の世界を描いているのでは?との書き込みを幾つか見かける。
成る程、この作品での京都の風景には全くと言って良い位に生活感が全然感じられない。
確かにもたいまさこが椅子に座り休んでいる川っぺりは、まるで三途の川と言えなくもない。
そうなるともたいまさこは、地上と霊界の境界にいる門番みたいな存在なのか?
※ 作品鑑賞からかなり時間が経っているので、何ともハッキリとした意見が言えないのはもどかしい。
機会があれば再見してみたい。
[2010年11月9日新宿ピカデリー/スクリーン5]
映画「マザーウォーター」(松本佳奈監督)から。
まずは第一声、私はこの作品、好きだなぁ。(笑)
絵画や音楽・映画等を鑑賞すると、必ず考えてしまうこと。
この画家・音楽家・監督は何を伝えたいんだろう?
しかし、芸術家によっては、自己表現せず、
この作品から何かを感じてくれればいい、という思いで
世のなかに作品を発表している人もいる。
この作品も同じことが言えそうだ。
事件も何も起こらない生活や、何気ない景色の中に、
自分を見つめ、発見していく楽しみがこの作品にはある。
もたいまさこさんの飄々とした歩き方や話し方は、
私の憧れとするところであるが、なかなか近づけない。
誰とはなく「今日も機嫌よくやんなさいよ」と声を掛け、
若い男性には「なに、ゴチャゴチャ言ってんの?」とか
「分析ばかりしてても、しょうがないんだよ」と叱咤し、
「踊ろうか?」と冗談っぽく誘ってみて、
モジモジしている若者に「本当につまんない奴だね」と
笑い飛ばす、その余裕が羨ましかった。
選んだのは、いろいろなことに迷う若者に向けて発した台詞。
「自分の決めたことって、どうなっても面白いから。
どっちに転んだって、なるようになるよ。
いいから、一度、転んでみな」の一節。
今の若者、転ぶのが怖いんだよなぁ、きっと。