マイ・ファーザー(2007)
プロット
韓国
12月12日 2009 劇場で
MY FATHER マイ・ファーザー
プロット
イタリア・ブラジル・ハンガリー合作
07月02日 2005 劇場で
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ファーザーコメント(18)
予告で描かれている通り主人公のアンソニー演じるA.ホプキンスが認知症に苦しむ作品である。ただこの作品の特徴的なのはアンソニーの認知症を第三者視点で描かれるのでなくアンソニー視点で描かれている。その為観客であるこちらも何が何だかわからないシーンが中盤は続く。分からないシーンに対して理解しようと強く進むと逆に沼にハマってしまい訳が分からなくなる。
最後のシーンでアンソニーは数週間前から施設に入り生活をしている真実が伝えられる。
そこで観客側もそしてアンソニー自身もこれまで描かれていた出来事の殆どが幻想だという事を知る事となる。
そこでアンソニー自身が自分の病気を強く気づいてしまい「なにがなんだか分からない」と泣き崩れる。このシーンはとてもグッと来るシーンでありこちらも自然と涙した。
この最後の「なにがなんだか分からない」というアンソニーと同じ気持ちを非常に共感できるからこそ僕自身も涙したのだが、この作品はこの最後の言葉の為に冒頭から描かれていた事を強く実感され感心させられた。
第三者から視点から見る認知症患者の作品はこれまでいくつか見てきたが認知症患者視点の作品は新鮮味がある。
第三者から認知症患者を見ると可哀想だとか理解してあげようとする気持ちが強く芽生えるが、患者視点でみるとそういう事よりも不安や絶望感が強く抱き没入すればするほどこちらもソワソワした不安感を強く抱いてしまう。
僕の亡くなった祖父なんかも最後の方は物忘れはそれなりにあったがこういう作品を見ると認知症にならず最期を迎えることは本人そして周囲にとってはとても幸せな事だったと実感させられる。
ただ自分自身そして両親をはじめまだまだ先の話とはいえこれから老後を迎えるのは避けて通らない道である。
認知症に限らず人は老いれば物忘れは多かれ少なかれ通る道である。
そんな時にこの作品を見たことを思い出すことになるだろう。そんな時をもし迎えてしまった時にはじめて迎えるのと、作品を通して擬似体験し迎えるのでは一歩目が大きく違うのではないか。
そんな事をしみじみ感じさせてくれる作品であると同時にA.ホプキンスの見事な演技に魅了された。個人的には今年見た作品の中でベストクラスに心に響く作品であった。
認知力と記憶力の衰えにより、家族など身近な人の顔も認識できなくなる、今日の日付や曜日といった時間感覚もあいまいになるといった症状は、多くの人が知る悲しい現実だ。フランス語の舞台劇「Le Pere」を書き、その英語版映画化である本作で監督デビューを果たしたフロリアン・ゼレールは、認知症患者の内なる混乱と不安を観客に体験させる狙いで視覚的なギミックを駆使した。健常者が見る夢の中でも、昔過ごした場所に戻っていたり、とっくに成人したわが子がまだ子供のままだったりということはよくあるが、アンソニーはまだらになった記憶で構築される夢と現実を境目なく行き来している状態であり、そんなアンソニーの主観世界と苦悩するアンの客観世界が混然一体となった映像を私たちは目にすることになる。ある種の精神疾患を観客に体感させるという点で、クリストファー・ノーラン監督が前向性健忘の主人公を描くため時間軸に逆行して構成した「メメント」に通じる創意工夫だと称えたい。
アンソニー・ホプキンスとオリビア・コールマンの名演は言うまでもないが、真に迫るがゆえに、老いと死を避けられない哀しみが一層深く胸に突き刺さる。
勝手に想像していたら
実際には難解な構成のドラマでした
アンソニーの頭で起きている事と
実際に起きていることが
入れ替わり、立ち替わり表れ
どれが現実で、どれが虚像なのか
とても落ち着かない
これ自体が
アンソニーの頭の中で起きている事象なんでしょう
認知症の方は
この繰り返しが起きているのだから
それはそれは不安で堪らないし
何も信じられないでしょうね
最後の場面で
アンソニーが言った言葉
そのものが
認知症の方の心の叫びなんでしょう
それをストレートに描いた
この作品を観れて
とても良かったと心から思います。