俺たちに明日はないッス
プロット
日本
11月22日 2008 劇場で
ボニー&クライド 俺たちに明日はない
プロット
アメリカ
01月01日 1900 劇場で
俺たちの明日(2006)
プロット
韓国
03月22日 2008 劇場で
俺達に墓はない
プロット
日本
05月26日 1979 劇場で
俺たちは天使じゃない(1989)
プロット
アメリカ
02月10日 1990 劇場で
俺は死なないぜ
プロット
日本
06月25日 1961 劇場で
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俺たちに明日はないコメント(20)
ボニーについて、最初は可愛げあって好きだったけど途中から、ただのわがままなやつに見えてしょうがなかった。だから共感というより悪い事するとこうなるよっていう作品だと思ってみてた。
でもこれが青春ものとしても見れるから驚きで、どこか全体的に爽やかさが漂っているのだ。
時代との関係性で銀行強盗をしても大した儲けにはならず日常の退屈からスリルを求めているだけの空しさも感じる。
強盗の場面も少なく追われている緊迫感も薄くチョットした拗れた人間模様が頻繁に描写されているようで退屈感は否めないがF・ダナウェイの魅力ある存在感で解消出来ている気も。
C・W・モスの現代で観ると羨ましい程のヴィンテージな風貌に興味心を煽るスタイルで。
凄まじいラストの前に愛し合えたコトが一番の幸せで多少の美化はあるだろうが本当に存在していたボニー&クライドの実話に驚愕する。
まずは冒頭、自動車の後部ガラスの合成が、古い映画(1968年公開)であることを思い出させる。
クライドの 「刑務所で作業をしなくてすむように、足の指を切ったんだ」 のエピソード、怖すぎるから、いらない。お~、怖い。
ボニーは、俺にはいかれた女としか映らない。きれいだが、この街にいる限りはしょぜんウェイトレスで終わるのが精いっぱいだということはわかる。が、だからといって無法者についていこうという短絡がわからない。しかし、世界恐慌下の世界というのは、それくらい息詰まるものだったのかもしれない。そんな、市井のひとりの目線で、その時代を感じることができるのは、映画の醍醐味のひとつだよなあ。
殺人を犯してしまってからの二人は、坂道を転がり落ちるように、後戻りできないところへ走り続けていく。まあ、殺人を犯した時点で、「終わっている」 と考えてしまうのは、とくに当時であれば、当然なのかもしれない。だから、悪事を働く一方で楽しそうに遊び、家族に会いに行き、といったことが行われるのだろうか。いずれにしろ、その楽しそうな生活、転げ落ちていく様は、まさにアメリカンニューシネマだ。
うん、きょうは勉強になった感じ。「卒業」 「小さな恋のメロディ」 「俺たちに明日はない」 と観てきた。あす「狼たちの午後」 を観れば、だいぶアメリカンニューシネマを感じられるようになりそうだ。
参考:アメリカン・ニュー・シネマ
アメリカンニューシネマ(American New Wave)は、従来のハリウッド映画と大きく異なる。
従来の映画は、「ハッピーエンド/観客に夢と希望を与える/万人受けする内容=社会的公序良俗/主人公は正義のヒーローまたは温かい家庭」 であるのに対して、
アメリカンニューシネマは、新しい感覚として、「ハッピーエンドは回避/特定層に向けた価値観/反社会性の主張の正当性を含む/主人公は社会からはみ出したアウトローやアンチヒーロー」 であることが多い。
ボニーとクライドの反体制的且つニヒリズムも感じられる台詞に引き込まれたものだ。
あれから幾星霜。
久しぶりに鑑賞したが、
ボニーの”初めは世界を征服したつもりだった・・”と言う後悔の台詞を始めとして、義賊を気取って始めた銀行強盗家業の愚かさに気付いていく彼らの姿が哀切であった。(モスだけ、相変わらずであったが・・。)
<余りない事なのだが、今作は久しぶりに鑑賞して感想が変わった作品。私が、”世の常識”とやらにどっぷりと浸かったからであろうか?>