太陽を盗め
プロット
アメリカ
09月06日 1969 劇場で
スピードを盗む男
プロット
イギリス
03月30日 1957 劇場で
太陽を抱け
プロット
日本
06月15日 1960 劇場で
ミスター・ノース 風をはこんだ男
プロット
アメリカ
04月21日 1989 劇場で
太陽をつかもう!
プロット
イギリス
07月15日 1967 劇場で
陽だまりハウスでマラソンを
プロット
ドイツ
03月21日 2015 劇場で
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太陽を盗んだ男コメント(20)
しかし、少し長いなと敬遠していたが
このたび鑑賞。
確かにコレは凄くいい。
衝動に溢れた名作に感じた。
作り手の勢いや、演者の気概。
今見ても、マジですげーと思える
映像に溢れている。
いま、私自身はシラケで過ごしている。
犯罪に走ろうとは思わないが
何もかもどうでも良いし
他人事のように過ごしている。
そんな中、何かに没頭できるジュリーが
羨ましくもあり
過去の努力の賜物でもあるのだろう。
あと5年はシラケで過ごす。
結論を放り投げ無責任
核に対する見解も薄っぺらい
ゴダールのベトナム戦争批判である気狂いピエロの影響か
ちなみに気狂いピエロはマスターフィルムが紛失した
同じく駄作だから仕方ないが
やはり後年まで語られない映画には理由がある
折しも「本物」が現れたようなので、前々から見ようと思っていた本作をやっと見ました。
何をしたいのかがわからない。というのがこの作品の主題の一つなのだが、この時代は本当に「幸せ」だったんだろうなあと感じた作品だった。幸せで満ち足りている時は、不満や要求は生まれない。だからこそ前時代に取り残されている冒頭の老人の存在が映える。
で、最終的にこの映画の印象として残るのは、「世代」だろうか。
役者に注目すると、沢田研二のだるさは当時のトレンドだったのだろうし(今なら即懲戒だけど)、菅原文太は格好良かったし、にゃんこは可愛かった。池上季実子はキャンキャンやかましかったが、当時の女優の声色は大概あんな感じだから仕方ない。
何か妙に「わかんねーな」と感じるのは、昭和の世界観で倫理観ぶっ飛び系の狂人を見るのに慣れていないのかもしれない。平成の狂人は狂ってるなりに何となく本人の中での論理や理屈が語られ(幼少期のトラウマとか)たり、本当に徹頭徹尾狂ってるのでそもそも論理が必要ないことが多いように思う。それは平成映画の親切さなのかもしれないが、それに対して、昭和後期の彼は、なまじきっかけたる事件があったことが一見答えに見えるのに、妙に難解にさせている気がする。強烈に「生き延びた」経験を得てしまって、日常に戻った時、生きている実感がなくなったのかなーと思われた節(ぎりぎりスクワットなど)はあったが、何故か妙に「本当にそれだけ?」という気持ちにさせられた。おそらく、「それで何で原爆? しかもプルトニウム?」という一番大事な繋がりが読めなかったからかと思う。
冒頭の老人に戻って、彼に注目した時、そこにはちゃんと感情や理由があって、感情移入を促すような仕掛けがあった。しかし「何がしたいのかわからない」系主人公には、自分はどうも共感できなかった。本当に狂人なら共感できないのも全く気にならないのだが、本作主人公は一応世間に溶け込んだふりをしている。そこに行動の一貫性がなくて、「何がしたいんだお前」「だからわかんねって言ってんだろ」「じゃあ徹頭徹尾狂ってろよ隠蔽工作とかしてんじゃねーよ」的な理屈の通らなさが気持ち悪いのかもしれない。
尾崎豊に今の人が共感できないのと似たものを感じる。「何がしたいのかわからない」「どこかへ行ってしまいたいのに行けない」からって何で窓ガラス割る? バイク盗む? 年齢や社会の閉塞感があることには共感や同情ができても、それを理由に他人に迷惑をかけるような作品には全く共感できない世代で育った自分にとって、そんな奴は狂人で、狂人とは仲良くできない。
「世代差」というものを描くのも一つの主題だったようだが、今見てもそれを考えさせられるということは、その点非常に上手く行っているのかもしれない。
歌うだけ、スクリーンの中だけ、当時もそうだったのかもしれないが…でも、じゃなかったらあんなに尾崎ヒットしたりしないよなあ…とも思うわけで。
一番心に残ったのは、「お前が殺して良いのはただひとり、お前自身だ」という台詞。厳しすぎるけど真っ当過ぎる正論で、この台詞のおかげで何か妙に安心できた。
菅原文太さんが死去された頃に、日本映画専門チャンネルで特集で放映されたと思うが、沢田研二主演の『太陽を盗んだ男』。赤か黒かどちらかの線を切らなければ東京都心で原発が爆発する交換条件に5億円をビルの屋上からばらまけという犯人の指示を警察がしたところ、もしかしたらすぐに原爆が爆発するかも知れないにばらまけれた5億円に熱狂して拾い集めようとする群集のシーン。これは何か多くを表していたように思う。1979年にハリウッド級に荒唐無稽なアクション映画が製作されていたのだが、池上季実子はわざわざ精神を病んだ犯人に接近して怖くないところが、堂々たるフィクションである。以前海に突き落とされていたのに。それで敵か味方かわからない不可解な女をみせる。敵でもあり味方でもあったということなのか。カーチェイスの場面が哀愁ある音楽になる所なども気になる。犯人の心理を問うのも何か大きい所があるのかも知れないが、アクションとサスペンス映画としても、ハラハラする。東宝映画だが、角川映画の『野性の証明』のようなのも思い出した。だいたい、菅原文太はあんなに上空のヘリコプターから飛び降りたら現実なら即死なのだが、重傷を負いながらも迫っていった。沢田研二も原爆を作る過程で被ばくしていて、症状が出て来る。楽しく遊んでいる子どもたちのプールに犯人が放射性物質の破片というのか、それらを入れてしまい、公害で仰向けに浮いてしまった魚たちのようになるイメージが出てきて、犯人まで一緒に浮いているような場面があった。これはわかりにくい。大体、猛毒の放射性物質は茨城県の東海村から盗み出したのだった。なぜヘリコプターで追った所で逃げられて、ローリングストーンズが来日した場面に移れたのか現実ではないのだが現実的ではない。後に、菅原文太さんも沢田研二さんも反原発の姿勢を打ち出している。この映画の影響もあるのだろうか。この映画の長谷川という監督は、この作品以降映画監督をしていないという。被ばく二世だという。なにかしらそういう所に本音があるのか。菅原文太が最後にあんなに撃たれたのにどうしてまだ闘えたのかも現実では無いのだが。そして、最悪の結末を予感させて終えた。ネタバレだらけに書いてしまった。