底抜け宇宙旅行
プロット
アメリカ
07月10日 1960 劇場で
宇宙の7人
プロット
アメリカ
04月04日 1981 劇場で
宇宙へのフロンティア
プロット
アメリカ
09月09日 1989 劇場で
爪先の宇宙
プロット
日本
11月17日 2017 劇場で
火の鳥 宇宙編
プロット
日本
01月01日 1900 劇場で
宇宙の法則(1990)
プロット
日本
01月27日 1990 劇場で
このサイトは、映画のポスター、予告編、映画のレビュー、ニュース、レビューに関する総合的な映画のウェブサイトです。私たちは最新かつ最高の映画とオンライン映画レビュー、ビジネス協力または提案を提供します、私達に電子メールを送ってください。 (著作権©2017-2020 920MI)。メール
2001年宇宙の旅コメント(20)
見ているうちに映画というより一つの芸術品として見るようにしてから作品の楽しみ方が分かってきた。
意味が分からないシーンが多々あると思うが考察を見るとちゃんと理解できるし、視聴後に考察を見ているのも面白い。
本作には苦い思い出がありトラウマがあります。学生時代の数十年前、いっぱしの映画通ぶって、当時既に映画史上に残る名作とされていた本作に臨みましたが、さっぱり意味が分からず、まるで歯が立ちませんでした。
テレビ番組を見て、改めて正対してみようと思い至り、数十年ぶりに観てみました。
やはり原題にある“Odyssey”が示す通り、本作は、「知的仮想体験する宇宙旅行」というべき、言わば芸術的映像作品であって、映画作品ではないというべきでしょう。
私にとって「映画」とは、スジ・ヌケ・ドウサという映画の三要素により構成される映像作品ですが、本作にはスジとドウサが完全に欠落しています。
その一方で、ヌケによって観客に宇宙旅行を「知的仮想体験」させるために、徹底的に作者の目指す完璧を追及し尽した成果が見事に結実していると云えます。鬼才スタンリー・キューブリック監督と稀代のSF作家アーサー・C・クラークが、互いの理想を切磋し衝突させて研磨し尽した相剋による、将に奇跡の産物です。
技術的には、美術(Production Design)、視覚効果(Visual Effect)、音響効果(Sound Effect)の各職人たちの、持てる技の粋を究めた発露が錯綜して相乗作用に励起させたと思います。
作中に挿入される「美しく青きドナウ」の、文字通り美しく、実に耳に心地良い流麗な旋律は、軽快にして見事に蠱惑的で官能的であり、「ツァラトゥストラはかく語りき」の荘厳で重厚な旋律は、古典的にして見事に先鋭的で前衛的です。
私には、今回は、半世紀前の大阪万博の多くのパビリオンで上映されていた諸々の抽象映像を想起させるものでした。
もはや本作は、映画としての構成や制作意図を論じる作品ではなく、視覚と聴覚を120%鋭敏に張り巡らし、ただ体感すればよいものです。それは、恰も美術館で絵画や彫刻を鑑賞するのと同じです。
そう、将に本作は「観賞する」対象ではなく「鑑賞する」作品であり、「体感する」映像だということです。
モノリスによって進化した猿人が自我とエゴを手にして以来、人類は加速度的に進歩した。人類が生み出した究極のハルも、自己保存という自我とエゴによって暴走する。
思考に支配された知性の先にあるものは所詮エゴなのか。
三次元と四次元の間に存在するボーマン(人類)の意識が、高次元へ旅することはまさに「悟り」と言える。
完全に調和した宇宙には、それぞれに適した空間が用意されている。そこは快適で静かで穏やかだが、まるで「死」の世界。
だからこそ、そこの住人(かぐや姫もそう)は、生きとし生けるものが輝くこの不完全な世界(地球)を味わいたいと願うようだ。
ワクワクするような青い地球はスターチャイルドの最高の玩具みたいだ。
地球上では肉体というモビールスーツを着ることによって思考と感情(自我とエゴ)が肥大化し、真我が隠れてしまっている。しかし本来、我々はスターチャイルド。完全なる宇宙から生まれた真我の存在なのだ。
モノリスは高次元の木星と交信しながら、異次元移動する乗り物なのか?進化を促す道先案内人なのか?何にせよ、モノリスに触れると木星にアクセスできる。
地球環境が崖っぷちの危機に直面し、人類に進化が迫られる『今』。高次元の意識へのアクセスを体験できる、この名作の再登場か必要だと感じた。