祈り 幻に長崎を想う刻(とき)
プロット
日本
08月20日 2021 劇場で
エヴァとステファンとすてきな家族
プロット
スウェーデン
11月29日 2003 劇場で
家族狂想曲
プロット
アメリカ
01月12日 1991 劇場で
ブリジット 女が男を奪うとき
プロット
フランス
09月16日 1994 劇場で
フラッグ・デイ 父を想う日
プロット
アメリカ
12月23日 2022 劇場で
ヤクザと家族 The Family
プロット
日本
01月29日 2021 劇場で
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家族を想うときコメント(20)
家族誰もが問題を抱えている。誰もがそこを解決しよいと努力している。しかし何一つ改善されない。誰も悪くない。こんな社会の現実をストレートに静かに描いているのがケンローチ監督だ。
年末にずしっと重い硬派な作品。
インターネット技術の革新で人々の生活は便利になり、皆が幸せな暮らしを得られるとおもわれた。しかし実際は携帯端末にこきつかわれる配達員の実態がそこにあった。
借金を抱え賃貸暮らしのリッキーは生活を建て直すため過酷な配達のフランチャイズの仕事を始める。報酬は努力次第で月収50万円以上は得られるが、毎日14時間労働で週に6日も働く。妻も介護のパートで家計を支えるが年頃の息子は反抗期で、幼い娘は寂しい日々を送っている。
リッキーの持ち前の勤勉さで仕事は軌道に乗るが、家族で過ごす時間は削られてゆき、次第に反抗期の息子は問題行動が増えてゆく。それでもリッキーは仕事を休めない。一見高収入かと思われた仕事には様々なペナルティーがあり、配達員はルールにがんじがらめにされている。家族はこのままでは崩壊の一途をたどるしかないのか。
イギリスと言えば、かってはゆりかごから墓場までといわれる福祉国家であった。しかし新自由主義の台頭で規制緩和が進み、競争社会が激化。職業は不安定となり、いまや福祉国家といわれた姿は見る影もない。
主人公のリッキーは勤勉で善き父親である。妻はストレスのたまる介護の仕事に誇りを持っていて、介護対象者に敬意を払っている。息子は反抗期だが、家族での久々の団欒の際に母が介護先に向かわねばならない時には機転を効かすほどの根がいい子であることがわかる。幼い娘も寂しいながらも両親のことを想いわがままを我慢している。
このように本作の家族四人は皆が互いに家族を想いあっていて素晴らしい家族である。そんな家族を取り巻く環境が否応なく彼らを苦しめてゆく。
この格差社会の弊害はもはや個人の力ではどうしようもないところまで来ている。すべての元凶はこの格差社会を造り上げた政治であり、政治が改まらないかぎりリッキーの家族のような不幸は増え続ける。
そしてアジア初のアカデミー賞作品賞を産み出した韓国だけでなく日本も例外ではない、非正規雇用で格差社会を産み出したこの国はもはや人口減少により衰退の一途を辿るばかりである。
自らの支持者だけを集めて桜見物に興じる指導者はもはや美しい国には不要である。
主人公と同じ、フリーランスとして働いている人には、ぜひ見てもらいたい映画。
格差社会と聞くと、一部の富める人達が、まじめに働いている人達から搾取している、ピラミッド構造を思い浮かべる。
この映画を見ると、格差問題の本質は、ピラミッドのような構造ではないことが分かる。
問題の本質は、社会的無関心。
タイトルの原文は、宅配の不在票に掛けてあると、解説して下さった方のコメントを読むと、社会に対して、埋没してしまった人の声を代弁したタイトルに聞こえる。
「確かに私はここにいたんですが・・」と。
そんな映画にも希望を感じる。
息子のセブは、両親が大変な思いをして働いているのに、問題ばかり起こす。
落書きで捕まり、喧嘩で停学になり、万引きで捕まる。
全てわざと。
お父さん、大事なことを忘れているよ。と伝えるために。
やりきれないラストだけど、この家族なら大丈夫と思いたい。
この映画には描かれていないけど、今はYouTubeなどで、質の良い情報を誰でも手にすることができる。
情報を手にすることが、とても大事であり、希望でもあると思う。
質の良い情報をシェアすること、シェアしてくれる人を有料コンテンツなどに入会して、応援すること。
今はとても良い時代だと思う。
家族の理想と現実の差がこれでもかと描き出されていて、観終わったときに何とも言えない無力感とリアリティのある関係性に震えました。
感動した、とか可哀そう、などというのではない涙を何度も流してしまいました。大きく盛り上がる点はないけれど全ての物事、事象が重くのしかかる感覚があり、程よい倦怠感すら感じるようです。
観る前は内容的によくある結局家族の心温まるハッピーエンドになると信じていたのですが、現実は甘くなかった。
家族全員が良い方向に向くように行動しているはずなのに、うまくかみ合わず衝突、ささいなズレが大きな問題になってしまい家庭が壊れ行くのが非常に苦しい。
父も母も家族を養うために働いているのにそれがもとで、互いを理解しきれず喧嘩、そこに息子の素行不良、彼なりの家族へのメッセージだったのかもしれないが伝わらずまた問題を起こす、それらをみてきた娘は仲を取り持とうと振舞うも内面に大きなダメージ、しかも上手くいくようにと行動した結果父と兄が大きな喧嘩に発展してしまうという悲劇。最善を尽くしているのに何もかもがうまくいかない。
関係が修復したはずなのに生まれる家族内の傷が治しても直しても消えないのが見ていて辛かったです。
そんな中で個人的に印象深かったのは病院のシーンです。
父とそばにいた親子連れ、妊婦さんとの対比が同じ家族なのに幸せの格差があって胸が締め付けられる様でした。追い打ちに父の仕事の電話、ここまで冷静でい続けようとした母の心の限界が来てしまった。支えあって生きていく家族の「支える」の意味がとてもネガティブに響きました。
そしてラストシーン、どうしてこんなに愛しているのに苦しいのでしょう。愛しているからこそボロボロでも働く父、愛しているからこそそれを止める息子、母、娘。
仕事に出た時に真っ先に止めるのが息子であるのもぐっと来ました。あんなにも対立しあっていたけれどやはり大好きな家族なのだということが伝わってきました。
それからタイトルである「家族を想うとき」の原題を調べてさらに印象深い作品になりました。
「sorry we missed you」これは宅配の不在表に書かれる、「お届けに上がりましたが不在でした」の常套句。父がラストに家族への置手紙に使ったのもこの不在表であるのがにくい演出でした。
そして直訳の「会えなくてごめん、寂しい」といった意味。家族へ伝えたかった父の本心はこれかと。
誠実にいきている家族の社会での厳しい待遇をこの作品で取り上げて「今まで見逃していてごめんなさい」と伝えたかったともとれるかもしれない。ここまでくると深読みのしすぎかもしれないけれど。
最後に、今回この作品を見ることが機会を得ることが出来て良かったです。この作品は生きるうえで非常に重要な財産になると感じました。現実をフィクションで突き付けてくる作品はこれまでも見たことがありましたが、その中でもこれは私の中で特別になりそうです。
本作で「フリーランス」が描かれるとき、フリーランスで働く私自身も他人事とは思えなかった。その存在は時に舐められ虐げられ、家族の絆も引き裂かれそうになる。それでもなお彼らが「善くありたい」と願い続ける姿を、ローチはありったけの尊厳を持って描く。我々がローチ作品に心を動かされるのもまさにこの部分だ。時にユーモアすら挟み込みながら深刻な物語を絶望させずに伝える。これほど厚い魂と筆致を兼ね備えた映画作りができるのは、世界広しといえどローチくらいしかいないと、そう強く思うのだ。