野ゆき山ゆき海べゆき
プロット
日本
10月04日 1986 劇場で
みゆき
プロット
日本
09月16日 1983 劇場で
天使のゆびさき
プロット
アメリカ
01月01日 1900 劇場で
お嫁にゆきます
プロット
日本
07月22日 1978 劇場で
ピューと吹く!ジャガー いま、吹きにゆきます
プロット
日本
01月01日 2009 劇場で
堕ちてゆく女
プロット
フランス
04月03日 1998 劇場で
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ゆきゆきて、神軍コメント(20)
戦後直ぐのごたごたの中で部下を銃殺した上官を
40年かけて探し出し、天罰を下す。
好意的に捉えればそうなるが、実際は非常に独善的。
手段は非合法だし、勝手な思い込みだし、
そもそも当事者じゃない赤の他人に説教をくらう筋合いはない。
ともかく、そういう人間を作ってしまったという意味では
彼もまた戦争の犠牲者なのかもしれない。
その様をカメラに映すことで、一般の人間との乖離が浮き上がり、その異常さに時には苦笑せざる得ない。
しかし、異常なのは社会か奥崎か、両方か?
HIPHOPグループSIMILABの
「普通ってなに?常識ってなに?そんなもんガソリンぶっかけて火つけちまえ」
というリリックを思い出さずにはいられない。
最後のオチ(襲撃すべき上官の息子を撃った、誰でも良かった)はほんとに酷いw
本物のテロリストがいったいどんな思考をしているのかと、私は最近、そればかりが気になっていた。
奥崎謙三は、私のそんなあまい「興味」を一蹴した。
革命と死と愛と神を、同時に見せつける。
共同体の維持のために暴力は発生し、なんらかのかたちで殺害が正当化される。
犯罪行為を隠蔽するのに、とりわけ最大の禁忌にまつわる殺害を隠蔽するのに、上官たちは「良心」を傘に何も語らない。
このとき、さてどうなるか、だ。
奥崎謙三は、神の供犠のルールにもとづいた復讐や制裁をおもいつき、当然に暴力を伴うことになる。「知らぬ存ぜぬは許されない!」とキレる。
目的と過程によっては、神は暴力を肯定するのか。人類にとって途方もない難題を残したまま、奥崎謙三は死んだ。
否応なく地獄を見ることになる。
多くの犠牲者、戦死者、餓死による日本兵の死者を出したニューギニア戦線から生きて帰った元兵士の奥崎謙三は、自ら神軍平等兵と名乗り、国家を否定し、昭和天皇や田中角栄に攻撃を企てる。この映画では、戦後40年近く経った80年代前半、終戦後にニューギニアの日本軍で兵士が2名処刑された事件について当時の当事者であった上官などを突然訪ね、言葉と暴力によって真相を暴こうとし、ついには拳銃による殺人未遂事件まで起こしてしまう。
奥崎の行動原理は宗教原理主義のテロリストと同じで、自分を神の道具とみなし、神の意志を体現する者だと信じているので、彼にとっては殺人行為でさえあらかじめ免責されている。そんなものは絶対に許容できないが、奥崎が暴き出した戦争の地獄、敵兵を、現地住人を、そして同じ部隊の日本兵をも殺して肉を食べた地獄は、あまりに凄惨で酷く醜悪で、奥崎の悪がかすんでしまうのだ。ここで自分の倫理観が揺さぶられる。
奥崎謙三は戦争の地獄が産んだ怪物だ。問題は、地獄の副産物による犯罪行為を断罪するだけでは、地獄に向き合うには不十分だということだ。