ドゥーム・ジェネレーション
プロット
フランス・アメリカ合作
07月06日 1996 劇場で
ブロークン・ジェネレーション
プロット
アメリカ
08月19日 2022 劇場で
ザ・ブランク・ジェネレーション
プロット
アメリカ
08月16日 1991 劇場で
ブランク・ジェネレーション リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ
プロット
アメリカ
07月23日 2005 劇場で
硝子のジェネレーション 香港少年激闘団
プロット
香港
09月23日 2000 劇場で
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ポッド・ジェネレーションコメント(18)
取り扱った題材としてはとても面白いと思う。
個人的には現実に、映画の中のようにポッドで胎児を育てられる世界になったらとても良いなとは思う。
技術的に可能になったとしても、倫理的な問題で実現はしないだろうなと思うが。
映画のストーリーに関しては
当初乗り気じゃなかった男性側がポッドとコミュニケーションを図り
愛を育もうとしたり、
逆に女性の方が戸惑ってしまったり
人間の心理の複雑さを表したかったのかなと感じた。
ただ、終わり方が唐突すぎるというか
急に女性の考えが180度変わったかのような行動をとり
あっけなくストーリーが幕を閉じたのが残念だった。
個人的には生まれたあとについてももう少し描いてほしかったように思う。
でも近い未来こんなことだって技術的にはきっと普通に起きそうな感じ。倫理的問題とかはもちろん山積みなんだろうけど。
人の行き交う駅の上の方のデッドスペースに設置された『自然ポッド』は今すぐにでも設置してほしい❤ ❤ ❤
ジェフ・ベゾスの見る未来?
間違えそうだし、犯罪に繋がりそうだし
楽になるのは出産までで育児は大して楽にならないのでは
女優さんがレイチェル・マクアダムスみたいでした 自然寄りに2人で決断したのは良かったかな
自然の空気を吸うためのスタンド、カウンセリングまでAIという時代、IT企業の優秀な社員の妻と自然を愛するフリーターに近い植物学者の夫という夫婦。会社の系列会社である子宮センターに密かに順番待ちをしていたら、自分の番が回ってきた。自然派の夫は最初は反対していたが同意して、受精の瞬間を画像で見せてもらい、卵を自宅に持ち帰り、在宅時間の長い夫が日がな一日卵のそばにいて可愛がり、どこにも連れて行き、妻が嫉妬する始末。妻は逆に会社に持って行くと生産性の妨げになるからと、専用ルームに預けさせられる。
ポッドの卵は子宮センターのもので、待っている人がいるため回転を早くしたいので、予定日より早めに産まれるよう仕向ける。理想的な出産を求める2人はビジネスライクな考え方に抵抗を感じ、夫は預けた卵を勝手に持ち帰る。妻は不要だと売却の話を持ちかけていた自然豊かなシェル島の別荘で出産しようと提案し、2人で島へ行く。妻が度々見ていた波の夢はこの島の風景だった。
しかしセンターから遠隔操作をされてバッテリーが切れる。出産は近いためバッテリーが持ちそうだと判断し、力づくでポッドを開けて赤ちゃんを取り出す。
子宮センターは最後結局よくあるマッドサイエンス的な描き方になっていた。ラストはセンター長(ジャン・マルク・バール)は更に「子どもが親を選べるようにする」という理想を言っていたが。
あり得ない設定なんだけど、子宮センターに反対するフェミニストとか、仮にそうなったらそれぞれの立場の人は、自分は、どういう感情を持つか考えることができる。
男女差別が完全になくなった世界、男性同様社会進出している女性にとって唯一のハンディである妊娠出産のリスクをなくす画期的技術が開発される。
受精から出産までを子宮センターが管理するポッドが行うという、今でいう代理出産みたいなことが技術的に可能となった。
キャリアウーマン(もはや死語)のレイチェルは優秀で忙しく、いまだ子供が持てなかったが会社の昇進祝いで子宮センター利用の補助を受けられることに。
合理主義者の彼女はポッドの利用には抵抗がなかったが、自然派志向の夫アルビーには妊娠出産は母体により自然に行うべきとの考えがあった。しかし、そんな自然派の彼も便利な科学技術を完全否定するほどではない。AIを使いこなせず焦げ付いたパンを提供されてはいるが。
渋々、ポッドでの出産を認めるアルビー。しかし、彼は次第にポッドに愛着を感じるようになる。身ごもることができない男性ゆえ今まで感じることができなかった胎児への愛着がポッドと過ごすことで生じる。逆にポッドに肯定的だったレイチェルの方が妙な夢を見たり、子宮センターのやり方にどんどん違和感を感じるように。
確かにポッドのおかげで妊娠出産によりキャリアを犠牲にすることもなくなった。でもレイチェルは違和感を拭えない。砂浜を裸足で歩く夢を見る彼女は自然を渇望してる自分に気づく。生身の足で感じる砂の感触、これは作り物では決して味わえない。アルビーが言うように子供は自然に育てたいという気持ちが次第に大きくなってゆく。
科学技術が進んでAI任せの生活は便利だけどすべてを委ねたくない。AIに完全管理され肉体労働やお産の苦しみから解放されて人の暮らしは一見幸せのようにも思える。でも逆に苦しみや苦痛からすべて解放された人はどうなるのだろう。苦しみと喜びは表裏一体。つらいからこそ喜びがある、妊娠出産の苦労が大きければ出産時の喜びも大きいものとなるはず。
AIに完全管理されすべての苦痛から解放された世界なんて逆に生きてる喜びも感じられないディストピアなのではないだろうか。
ピクサーの傑作「ウォーリー」ではまさにAIに完全管理されて人間が幸せそうな毎日を送ってたけど、実は繫殖もすべてAIにより行われていて、人間は恋愛することも忘れていた。それが間違いだったと気づいて人間らしく生きなおそうというお話。本作もそれと似ている。
人間は自然から生まれた生き物、自然と完全に縁を切ることもできない、でもかといって一度知ってしまった文明の甘い蜜も捨てきれない。
本作は自然と科学文明の両者と程よく付き合っていきましょうということが言いたいのか。自然の中で出産したいといいながら、結局赤ちゃんはポッドで出産するわけだから科学技術を完全に否定はしてない。どちらか一方にこだわるわけでもなく、一方を否定するわけでもない。
地衣類の共生関係のようにお互いが居心地よい関係を築ければいい。科学技術に完全に管理されるのではなく、ほどよく利用すればいい。妊娠出産に耐えられない健康的事情などがあればポッドの利用もいいだろうし。
人類が進歩した科学技術をどう受け入れ、それとどう共存してゆくかを描いた結構深い作品。ただ、エンタメ性は弱い。
ちなみにポッドを開発運用していた企業のCEOが、我々のお客はあくまでも親ではなく子供であるとか、子どもが親を選べる時代になればいいとか言っていた。子供の教育費用も国ではなくこの企業から支出されていた。これって企業が次世代の人間たちを支配してしまう怖さを示唆していたのかな。ポッド内の胎児に夢を見させる薬剤とか開発してたし、いずれは胎児を自分たち企業の都合のいいように洗脳することまで考えてたんじゃないかな。そういう点ではディストピアものと言えるのかも。