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ヒルコ 妖怪ハンターコメント(16)
OUT、アニメージュ、ジ・アニメ、ファンロード、マイアニメ、アニメディア等、書店の一角をアニメ雑誌が占めていた頃。
(New typeはこれらと一線を画す「新時代の雑誌」という印象が強かったので、私の中ではこのラインナップには含まれない)
各雑誌を手に取り眺めながら「自分はアニメファンではないなぁ。漫画好きなのだな。」という自覚や認識を抱いた記憶がある。
当時は別に「原作改変」に対して議論が行われる事もさほどなかった。
だって「TVアニメ・デビルマン」で育ったのだから。原作を知ればアニメというものが「上辺だけを借りてどれだけ好き勝手に無茶苦茶弄り倒すものか」なんて事はハナから知ってる。
一世風靡していたジェームズ・ボンド007だって、どれだけ原作小説とかけ離れているのか、という話は子供なりに聞いている。
そもそも、二次創作、いわゆる同人誌で原作キャラを自由自在に遊ばせて、好き勝手な物語を紡いでいたのは「コアな原作ファン」だからね。
当時は原作ファンvsアニメファンなどという対立構図は無いから。大好きな漫画のキャラを格好良く美麗に描いて遊ぶならば、絵柄が違おうが気にはならなかった。「作品を愛する人間が描けば、どんな絵柄でもきちんとそのキャラクターになる」ものだったからだ。
でも、それが良いのはあくまで「アマチュアの遊び」だから。
「プロフェッショナル」で「商業的」な「映像化」ならば、「原作」をそのまま「映像化してくれるもの」だと期待するわけですよ、原作ファンとしては。
でも事実は反対。「興行成績」「観客動員数」が重要なプロフェッショナルほど、原作に対するリスペクトや愛情は薄い。
70年代以前に「漫画原作の扱いが酷い」のは映像業界にも出版業界にも「子ども向け作品」なんて所詮子ども騙しの片手間仕事という蔑視があったからではないだろうか?
しかし、24年組に代表されるような文芸評論家にも高く評価される漫画が多数出現し始め「映像化」を取り巻く様相は変わってきた。
「小説家vs映画監督」「漫画家vsアニメ監督」の考え方や方針の違いが浮き彫りになってくる。
クリエイターとしての映像監督は、「解体・脱構造化・再構築」の部分にこそ「自分の仕事が出る」とばかりに頑張る人も多いだろう。
しかしながら、原作を愛する人間としては「それって原作を借りてくる意味がどこにあるんですか?」と聞きたくなる。
80年〜90年代は、諦めかけていた原作軽視の潮流が見直され、漫画・アニメ共にサブカルチャーという「大人の文化」として一般社会の中で立ち位置を確立していく過渡期であった。
(舶来モノに弱い日本人。スーパーマンやバットマンなんてDCコミックス作品は「大人の娯楽」として単純にとっくの昔に受け入れていたのだから、おかしなものだが)
原作改変甚だしい「シャイニング」は1980年作品(撮影に5年かかってるから感覚的には75年なのかも?)
対して、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「異邦人」は「原作を改変するな!」という原作縛りのせいでヴィスコンティの優れた能力を封印された「悪しき原作縛り」の代表作。
しかし、監督の中には「原作なんてレイプしてなんぼ」とほざく輩もいるらしい。(誰かはわからないけど押井守や森田宏幸辺りが浮かぶなぁ)
そこまで言うなら「なんでオリジナルでやらないんだよ!コケるの怖くて出来ないだけだろう!」と腹立たしくなる。
ただね。仮に「原作至上主義」と「映像至上主義」という対立があるとしても、それぞれの中で「価値観の水準」がピンキリだと思う。
原作派にも「古参ぶって映像から入った人間を軽視する奴」「僅かな、しかも優れた改変に対して目くじら立てる奴」がいるだろう。こういう奴らをウザいと形容する心情は理解出来る。
映像派にも「面白ければそれでいい」という思想に偏りすぎて「本来魅力的な登場人物の、人間性自体を貶める」「作品の核となる重要なテーマを改変する」という事を平気でやる監督がいる。
これは原作派にしてみれば「大切なものを殺された痛み」に近いのだ。
映像派は『原作と切り離せ』というが、頼むから最初から『原作の名前を使うな』『切り離して欲しいのはこちらの方だ!』と思ってしまう。
インスパイアでもなんでもなくて『原作の名前』という、すでに確立されている『ブランド名』に寄生し、リスクの少ない商品生産してるだけじゃないか。
「解体・脱構造化・再構築」の象徴とも言えるコミック・マーケット(コミケ)
私が記憶している時代は参加サークル1000〜5000未満。参加者数1万〜5万人未満。それがある年を境に一気に倍の1万サークル、10万人規模に膨れ上がった。随分と空気が変わった気がして次第に足が遠のいたが、現在は50万人市場だと聞く。
クリエイターが増えたのではなく、エンドユーザーの参入が増えたのは市場原理からも間違いない。
それが10倍に膨れたならば
「古参ぶる優越意識」でマウンティングする愚か者も増殖するだろう。
原作派を「十把一絡げに原作厨と罵る」視野狭窄者も同様だ。
そんなくだらない対立ではなく「原作を尊重した、より面白くする改変」という着地点をクリエィティブな視点で探るべきだと思う。
前置きが長くなったが、本作も「原作ファン」を落胆させる内容である。
「諸星大二郎の稗田礼二郎」を映像化するつもりじゃなくて「NHK少年ドラマシリーズ」を作るのに「妖怪ハンター」を使おうと思っただけならば、最初っからそう言ってくれないか?
だったらわざわざ「映画館にまで観に行ってないから!」
それを90年にやってどーなるのよ?
そんな作風を甘酸っぱい記憶と共に楽しめるのは、ピンクレディー全盛期に高校〜大学生くらいだった世代だけじゃないか?
少なくとも私は、21世紀に再放送で「少年ドラマシリーズ(多分、眉村卓の「謎の転校生」だと思う)を観た時には、70年代中学生の感覚の違いに愕然としたぞ?すでにギャグネタレベルに違う。立派過ぎて(笑)
70年代中学生って大人だわー。この感覚、90年にはすでに通用しないよ?(80年の時点でおそらく通用しないw)
あぁ、でも「スウィートホーム」とかもクオリティは近いものがあるか?
確認したらスウィートホームは1989年東宝。ヒルコは1991年松竹。
シャイニングの前例のように、B級・短館系ニッチ作品よりも、A級・一般向け娯楽大作の方が大幅改変を必要とするなぁ。
作品の「ターゲット層」がわからん。A級娯楽大作なんだろうけど、30〜40代をメインに狙ったジュブナイル&ホラー?ジュブナイルにする意味、あるのか?
今後、原作改変作品について、分析、体系化していくのも面白いかもしれない。30年の時を経て、そんな気にさせてくれたので星半分オマケしておこうか。
私はジュリーのファンでもあるので今のジュリーが「私じゃないです。親戚の子(爆笑)」とのたまう当時のジュリーに会えた喜びで更に半分盛っておこうw
弱っちい妖怪ハンター稗田だったが、沢田研二の演技も相まって恐怖心を増してくれる。『鉄男』のイメージもそのまま、観ている者を怖がらせる特殊効果。CGのない手作り感たっぷりの人面蜘蛛はとにかく怖い!さらにまさお(工藤正貴・・・工藤夕貴の弟)の背中に出来る人面瘡や用務員渡辺(室田日出男)の狂気とともにノスタルジックなまでの木造校舎にやられてしまった。過去に火災があったということで、母校の火事も思い出したりして・・・
ロケ地は富山県の学校らしいが、とにかくガラス窓や扉を危険を顧みず破壊しまくり!神秘的な池といい、眺望した際の校舎といい、ロケ地巡りをしたくなるほどでした。そんな田んぼの広がる小路を自転車で駆け巡る月島(上野めぐみ)。歌も神秘的でうっとりです。
何故こうも怖いのかと色々考えてみたのですが、ヒルコそのものより人面蜘蛛、人面瘡、そして休ませてくれないほど連続した疾走感じゃないかと。そして、月島に対するほのかな恋心に対してショッキングな急展開ストーリー。『サイコ・ゴアマン』はちょっと寝てしまったけど、おめめぱっちりでの鑑賞となりました。
上京してすぐ、どうしても行きたいところがあり、足を向けた。何しろインターネットはまだ民間に普及する前、手掛かりになるのは情報誌のみ。不慣れな大都会で右も左もわからない中、それでも地元にいるころからどうしても観てみたい映画があった。
『鉄男』。塚本晋也監督の実質的デビュー作だ。
これを観た時から、わたしはこの映画の世界観に惚れ惚れとしてしまい、大学時代のアマチュアとしての作品作りにおいては完全にエピゴーネンであった。
その翌年、今度はその塚本監督が、なんと私の幼少からの初恋の相手、沢田研二を主演に映画を撮るという。それがこの『ヒルコ/妖怪ハンター』だった。
けれども、なぜかその時わたしはこの映画を観に行かなかった。理由は覚えていない。何かあったのだろうとは思う。ちゃんと次の『鉄男II』やさらにその次の『TOKYO FIST』は舞台挨拶にも行ったのだから、塚本監督への愛情が醒めていたわけではない。が、とにもかくにもそれが、後々まで後悔として引きずることになった。
さて、そんな映画をついにスクリーンで観る機会が訪れたわけである。これはぜひ行かねばならない。多くの期待といささかの(何か当時観に行かなかった理由となるものがあったのではないかという)不安感を抱えながら、テアトル新宿に向かった。
杞憂だった。
というか、完全に冒頭の稗田礼次郎、いや、稗田を演じるジュリーの純真無垢を絵に描いたような笑顔がスクリーンのこちらに向けられた瞬間に、私はかつての恋心を完全に取り戻し、胸の奥がキュッとなってしまった。びっくりである。恋ってこういうものなのかと、頭がくらくらした。
そこから先はあまり覚えていない。いやまあ嘘ですよ。そこかしこに伺える塚本節といっても過言ではないカメラワークや、監督あなたジョン・カーペンターがやりたかったんですねみたいなクリーチャー表現とか、もちろんそれはそれでちゃんと堪能しましたとも。だって監督の作品は全部好きなんだもん。そのうえでジュリーがね。なんか悲鳴を上げて逃げ回ったり、腹を据えて立ち向かったり、そのいちいちがもう可愛かったりなんだりで、メロメロですよメロメロ。ジョージ・A・ロメロは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』。
閑話休題。
わたしのオールタイムベストである『鉄男』と引き比べると、やや物足りない感は実際ある。その辺は家内制手工業みたいな制作体制で映画を作っていたところから一気にメジャークラスのスタジオで映画を撮ることになった、不慣れゆえのところがあるかもしれないし、あるいは原作付きゆえのしがらみなどもあったかもしれない。あるいは低予算を情念で乗り切った『鉄男』とはモチベーションの差もあったかもしれない。憶測でなら何でも言えるけれども下種の勘繰りはこの辺にしておくとして、ただ、そうはいってもなかなかの意欲作だったかとは思う。
30年経ったことにより、若干クオリティ面では見劣りがするものの、きちんと怖いお話には仕上がっていて、上でも述べた塚本節のようなカメラワークの妙も含め、監督のファンにとっては居心地の良い作品ではあった。
途中まではドキドキして観てたが、蜘蛛人間みたいなのが出てきてからは呆れて怖くもなくなった。
工藤正貴が主役で、沢田研二は脇役の感じだった。
などなどなどと。
1人でツッコミ入れ続ける90分w
マジメな話をすると。夏のお化け屋敷の感覚、諸星大二郎の「実はとっても怖い古事記」の再現性、真夏の夜の夢的ファンタジー感、てなもんが、ローテク(30年前って事を考えると結構気張ってる?)にしては、なかなか真に迫るものがあって、面白かった。
美少女ポジションの上野めぐみちゃんの、微妙に慇懃な感じが逆に怖かったのは、ここだけの話です。