走れ!走れ走れメロス
プロット
日本
03月03日 2023 劇場で
走れ走れ!救急車
プロット
アメリカ
02月19日 1977 劇場で
走れ!イチロー
プロット
日本
04月29日 2001 劇場で
走れジュリー
プロット
日本
07月29日 1989 劇場で
続・復讐のガンマン 走れ、男、走れ
プロット
イタリア・フランス合作
01月01日 1900 劇場で
濡れた荒野を走れ
プロット
日本
06月23日 1973 劇場で
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走れロムコメント(14)
ストーリーのつなぎは自己補填。当局の検閲無し版がみたいなぁ〜。
作品の背景として、ロムが「生き別れとなった両親を捜」していることや、アパートが中国系資本の地上げ屋によって取り壊されそうになっていること(なぜか、この問題がベトナム政府による検閲の対象となっているらしい)は分かる。
しかし、それらはストーリー展開と密接に関係しているとは言いがたく、話を分かりづらくしているだけのように思える。
ロムは必死に金を稼いでいるだけで、「住民たちを救い」というモチベーションなど、持っているようには全く見えない。
貧乏人ほど一攫千金を夢見て熱中する「デー」という、国営くじの下2桁を当てる違法くじは、「胴元 - 賭け屋 - 走り屋 - 賭ける人々」という4層構造で成り立っているという。
違法であるがゆえに、人々は自分で直接賭けることができないようだ。
さしずめ、ロムと同業ライバルのフックは“走り屋”、川の中州に住んでいるギーおばさんは“賭け屋”という、胴元とのあいだの“仲介屋”になるのだろうか?
ところが、この“走り屋”や“賭け屋”が、実際のところ、何をやっているのか分からないのである。
アパートを走り回って、何かの紙をばらまく。しかし、それが“くじの結果が書かれた紙”なのか、何のためにばらまいているのかなど、さっぱり分からない。国営くじの結果はラジオで分かるからである。
そもそも、なぜ走っているのだろうか?
ロムは2桁の当たり数字を予想して集金しているようだが、バーばあさんやカックおじさんなど、賭ける人々がなぜ自分で予想しないのだろうか?
誰が予想しても、当たる確率が百分の一であることは、馬鹿でも分かりそうなものだ。
占いや予想屋にすがろうとする“頑迷さ”に驚かされる。賭けの常習者とは、こういうものなのか。
ロムとフックの関係も、つかず離れずで、全く理解不能だ。
殴り合いの決闘を演じたり、金を横取りしたり、縄で拘束したかと思うと、一方で、同業者として共存しているのである。
なお、ロムの幼い時代が、フラッシュバックで出てくるのが不思議だったが、ロム役の少年は監督の実弟で、「16:30」という学生時代の短編映画が挿入されているようだ。
この映画は、走る、争うといったアクションが、ほぼノンストップで続く。そして、アクションが止んで映画が終わる、という感じだ。
決して残虐なバイオレンス作品ではないが、心温まるエピソードなど無きに等しく、破壊こそあれ生産的なことなど見当たらない。
検閲があったとはいえ、もともと、話に“つじつま”を合わせようとは考えているようには見えない。
結局のところ、この映画にあるのは、貪欲さや愚かさ、暴力や裏切り、盗みや恐喝といった下層階級のもつエネルギー、それだけだ。
観客は、訳の分からないまま、ポカーンと口を開けてエンドロールを迎えることになる。
ベトナム本国で「驚くべきヒットを記録」したらしいが、日本とベトナムでは事情が異なるだろう。
この種の映画が今まで無かったのだろうか? 一体、どこがベトナム人の琴線に触れたのか、自分は理解できなかった。
デーとは何ぞやのテロップを字幕で示し、デーと労働者との関係性を主人公のナレーションで紹介していく始まりから、ロムとその商売敵フックいざこざへと展開していく。
路上生活ではないけれど、凡そ家とは呼べない様な家に住み、金を貯めて親捜しすることを目標にしているロムと、両親は他界しているフック。
そんな2人が生きる為に、公安に捕まるかも知れない闇仕事に手を染める。
孤児とデーにハマり振り回される労働者達という、言い方は悪いけれど、社会の低い位置にいる人達の様子が生々しくてなかなか良かった。
ベトナムの貧困層の生活環境(舞台はホーチミン)がリアルに映し出されていて、刺激的な作品だった。
ストーリーは、検閲の影響もあってか途切れ途切れな印象も受け、理解が難しかった。