Firebird ファイアバード
プロット
イギリス・エストニア合作
02月09日 劇場で
ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ
プロット
西ドイツ・ジャマイカ合作
02月09日 劇場で
ボーはおそれている
プロット
アメリカ
02月16日 劇場で
テルマ&ルイーズ
プロット
アメリカ
02月16日 劇場で
鈍色ショコラヴィレ ビエンナーレ
プロット
日本
02月16日 劇場で
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ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポコメント(20)
時代的に今は少ない大谷の妻の雰囲気や立ち位置を表現していた 松たか子さん は流石だった。
浅野忠信さん の出す、刹那的でデカダンで女を惹き寄せる物もとても大谷らしく太宰らしく良かった。
個人的には途中、眞島秀和さん が出演されてて嬉しかった。
太宰は小説の中に自分を投影した主人公をよく出している。ヴィヨンの妻の大谷もそう。本作では太宰が自分を投影して書いた他の小説からもモチーフを集め、太宰作品の中の太宰治を再構築し、大谷をより太宰治(または太宰が書いた太宰治像)に近づけようとしたかのよう。
少なくとも私は、この映画で太宰治の心情がより見えた気がしました。
太宰治の原作は未読です。
何度も映画の公開前に読もうとしたが、どうやら色々な太宰作品から断片的に引用しているらしいのを知り、読む時間がなかなか取れないのも在って断念しました。
従って、細かな部分に於いてかなりの勘違いをするかも知れません。
夫は絶えず「死にたい」と漏らしていた。
終盤で妻と愛人が対峙する場面が有る。
まるで勝ち誇ったかの様に、薄ら笑いを見せる愛人。
自分には一体何が欠けていたのだろうか?
そんな思いを確かめ様としたのかは計りかねるのだが、妻はパン助から口紅を売って貰い、自ら口に塗る。
眼の前には“本当は好きだった男”
口紅で化粧をした自分は、表に居る女達同様に男共に媚びを売る虚飾に満ちた人種と言って良い。
しかし、外へ出た妻は、そっと口紅を置いて我が家へと帰って行く。(実際は椿屋)
“死にたかった夫”と“死なせてあげられなかった妻”
それまでの偽りの夫婦生活をお互いに戒める様に振り返る。
この時に登場するのが、脚本家田中陽造が拘った《さくらんぼ》
おそらく太宰作品の中に出て来る重要な要素なのでしょう。残念ながら太宰作品を未読のこちらには、その本当の意味合いの詳しい部分は分からない。
しかし、ここで過去の田中陽造が関わった作品に似た様な場面が有ったのを思い出す。
鈴木清順監督作品の『陽炎座』
確かあの作品では《酸漿》が使われ、妄想とも現実とも区別のつかない、男女の妖気漂う世界が展開されていた。
『陽炎座』自体は泉鏡花の原作が有り、自由奔放なイメージに溢れるはいるが、それと比べると本作品に登場する夫は、その生涯で死にとり憑かれていた。(と思われている)原作者の太宰治の等身大に近い男。
監督は根岸吉太郎。
日活ロマンポルノ出身の人で、やはり全作品を観た訳では無いので、これも自信は今ひとつなのですが。この人の作品に登場する男女にもどこか共通する個所が有る様な気がする。
思えば、デビュー作となった『オリオンの殺意より 情事の方程式』の時から、出て来る男女のカップルにはどこか“死のイメージ”が見え隠れする時が有った。
出世作となった初めての一般作品である『遠雷』でさえ、ドライな男女が割り切って結婚し、最後になってやっと本物の夫婦として歩んで行く。その時に遠くで鳴り響く《雷鳴》には様々な解釈がなされたのを思い出す。個人的にもどことなく怖いイメージが有る。
『永遠の1/2』等は、全くの別人を似ていると言うだけで勘違いし、押し通す話だった様な気がする。(予習をせずに、当時観た不確かな記憶だけなので少し心配)
…と、根岸作品を全部検証した訳では無いのですが、この人の作品に登場する男女は、時に“擬似夫婦(恋愛)”をしている場合が多々見受けられる。
そう言った意味でも本作品のラストで、浅野忠信と松たか子演じるこの夫婦は、『遠雷』での永島敏行と石田えり同様に、真の夫婦として歩んで行く一歩だったのかも知れない。
しかし『遠雷』の時は雷鳴だったのだが、本作品のモデルとなった人物は太宰治本人に他ならず。彼のその後を考えると、本作品でのラストシーンは、見方によってどことなく男女の心中場面を映したモノクロ写真の様な風情も有り、単純なハッピーエンドとも言い難い。
出演者では、松たか子が絶賛されている様ですが、個人的には浅野忠信が良かった。シラフの時はなかなか死ねずにいて、自分の居場所を絶えず探して居るかの様にオドオドしているかと思えば。酒を飲み酔っ払った時になると、気が大きくなる典型的な駄目人間を巧みに演じている。初めてと言って良い位にこの人の演技力を素晴らしいと思った。
素晴らしいセット美術を始めとして、日本映画の面白さを堪能出来る作品です。
がしかし、お薦めするのは少し気が引けます。それは、この作品の表向きが、本当に馬鹿な夫婦の物語でしか過ぎないからなんですが…。
(2009年10月11日TOHOシネマズ西新井/スクリーン8)
「生きる」ことに向き合えず「死ぬ」ことばかりを願う人には、「死」=「崇高な英雄行為」である。いかに美しく、いかに理想的に死ぬか。そのことを日々考える。皮肉なことに「死」を夢見ることがその人の「生きる」糧となっている。しかし死が崇高で美しいのは、天寿を全うした人だけだ。理想の死を追い求める人に死神は微笑まない。死神が抱きとめるのは、生きることに前向きだが、一瞬の絶望で発作的に死を願ってしまった人だ。
太宰治をモデルとした小説家大谷(浅野)は、典型的な死を願う人だ。「僕は生きることが怖い」と弱音を吐き、次々に愛人を作り、呑んだくれ、泥棒まで働く。そんなどうしようもないダメな亭主を健気に支え続ける妻(松)。彼女は決して弱音を吐かない。夫のろくでもない行為を強く責めることなく許し、尻ぬぐいに回る。何故か・・・?愛しているから?これほどの仕打ちを受けたら愛などとっくに覚めてもおかしくはないのに・・・。自分は浮気をするくせに、妻の浮気が許せない夫は、ついに愛してもいない愛人と心中を図る。しかし前述のように死神は残酷だ。安らかな死ではなく、のたうちまわるみじめな姿と、スキャンダルだけ残って再び生きなければならないという辱めを彼に与える。それでも妻は夫に「どうしたらいいの?生き残って良かったというべき?それとも死ね無くて残念でしたと慰めたらいいの?」と静かに問いかけるだけ。だが彼女の心は常に血を流している。夫が残した睡眠薬を発作的に飲もうとする彼女だったが、彼女の生きる力の方が死神よりも勝っていたらしく、空を見上げて踏みとどまる。そして彼女は夫を助けるために、愛してもいない男に抱かれるのだ・・・。
松たか子の抑えた演技が良い。疲れた顔を見せず、凛とした上品な佇まい、抑揚をつけないセリフ回しが効果的だ。
だが本作で一番好演したのは、浅野忠信ではないかと思う。インテリ特有の物憂げで上品な佇まい。丁寧な口調と柔らかい物腰。こちらが責める前に謝る確信犯。寂しげな表情で「僕は弱い男です・・・」と言われたらもう許すしかない・・・。酒の飲めない浅野が『風花』で見せた絶品の酔っぱらい演技がここでも活きている。人間、やはり見た目が大切だ。彼のアンニュイな雰囲気があってこそのダメ男だろう(むさ苦しい男が「死にたい・・・」とウジウジしていたら「さっさと死ねよ!」って思っちゃう・・・笑)。
生きるエネルギーが間逆な夫婦だが、互いに引き合うことで生きていけるのだろう。それがこの夫婦の2人にしか分からない愛の形なのだ。
松たか子の真面目な妻と、才能ある小説家なのに家庭をまるで顧みないヒモ夫の浅野忠信。
夫は生きることより死ぬことに価値を見出し、妻は妻で夫が頼りにならない分自立していく。
妻が自立すればするほど、夫は妬き、
離れ離れになる2人で、もう別れちゃえばいいじゃんと思ったりするんだけど
妻は夫を思っている。それは情なのかもしれないけど。
夫は外に女がいたり心中してみたり、でも結局は妻と離れられない。
外で散々好き放題出来るのは、地に足ついた妻のおかげか。
結局周りが横やりを入れようと、全ては夫婦のスパイスなんだなぁと。
ヤキモチを妬く夫も、妻に言いよる男たちも、結局は脇役に過ぎなくて、
松たか子の芯のある演技とか、浅野忠信の一見筋の通らないふらふらさも、うまく調和していてとても好きだった。
三鷹から武蔵小金井まで1時間歩く妻夫木聡も、なんというかリアリティがあって、
こういう夫婦のあり方みたいなものを感じた。
こうはなりたくないけど少し憧れる、みたいな、相反する気持ちをうまくバランスとっているような。
表面ではなくて心の中で繋がっている、繋がせている、夫婦の形とか愛って表現したらこんな感じなんかなぁと思わせる映画。