名匠ジャン=リュック・ゴダールがスター女優ブリジット・バルドーを主演に迎えて手がけた長編第6作。イタリア人作家アルベルト・モラビアの同名小説をもとに、ある夫婦に訪れる愛の終焉を、斜陽化の進むヨーロッパ映画産業の問題と絡ませながら描いた。脚本家のポールは映画プロデューサーのプロコシュから、フリッツ・ラングが監督する大作映画「オデュッセイア」の脚本の手直しを依頼される。ポールと妻で女優のカミーユはプロコシュの自宅へ招かれるが、ポールが遅れて到着するとカミーユの態度はなぜか豹変しており、彼に対して軽蔑のまなざしを向ける。やがてポールとカミーユは映画のロケのため、カプリ島にあるプロコシュの別荘を訪れるが……。脚本家ポール役を「昼顔」のミシェル・ピッコリ、映画プロデューサーのプロコシュ役を「シェーン」のジャック・パランスが演じる。巨匠フリッツ・ラング監督が本人役で出演。日本初公開は1964年。2017年9月にはデジタルリマスター版が公開。
軽蔑(1963)コメント(8)
主人公とその妻とプロデューサー
この相似形を骨格に、なぜブリジットバルドー演じる妻が不機嫌になったのか、主人公を軽蔑するようになったのかについて展開する
映画が始まってすぐオデュッセウスを読んでいるなら、そんなことなんてすぐわかることだろう?とゴダールが判じかけてくる
だから物語なんか不要だろうと
さらに、そこに映画業界の内幕を舞台装置として選んで観客の興味を牽引しようとする
そして同時に映画製作に於ける自らの不満を訴えかけている
巨匠のラング監督を引っ張りだしてまでして
何故ならこんな連中が相手なんだぜと
ラング監督の作品名を出してついてこれるのかをまず観客に問いただしている
Mは当然観ているよね?と
さらに映画産業の関係者に、そのMをラング監督の代表作の一番に挙げれないようなレベルで映画に関わっているのかよと軽蔑の視線を送るのだ
凝った作りだと思う、バルドーのまるで心が読めない不機嫌さの演技や演出、二人の状況を示すゴダール監督の演出の的確さは素晴らしい
しかし、この作りにこれが芸術だと感銘をうけるかどうかだ、本作を評価するかしないかはそこにあると思う
ラストシーンの事故に至るアクセル音と序盤のスポーツカーのアクセル音との対比と劇的幕切れでようやく物語性が思い出されて終わるのみだ
つまり物語の欠如と芸術との狭間にある作品で、どちら側に寄って立つかによるのだ
バルドーの有名な幅広のヘアバンドをしたヘアスタイルに注目しなければならない
明らかにフェルメールの名画「青いターバンの少女」(真珠の耳飾りの少女)をモチーフにしている
これは単にヘアメイクさんが適当にアレンジしたものではない
間違いなくゴダール自身による意志を持った演出なのだ
この絵はオランダのモナリザといわれている
有名なスチール写真をみれば顔の向きまでその絵に似せているではないか
つまり何を考えているかわからない表情を敢えてさせていることをゴダールは表現しているのだ
つまり本作のテーマはこのヘアスタイルに込められていたのだ
もっといえば、これが判らないようなら、俺の映画は理解できないからつまらないよ、ハリウッド映画でも観てなさいとも言っているのだ
ラストシーンは自らの映画作りへの信念を象徴する人物がハリウッドを象徴する人物と赤いスポーツカーに同乗して走り出したところで、大事故になり二人とも死んでしまうところで終わる
ハリウッドと俺が組んでも、ろくな結末にならないとゴダールは表明している
大惨事になるだけだと
なぜ軽蔑されるのか。ハッキリした答えが出ないままに終わってしまった。途中でそれらしき回答はあったものの何か釈然としないままに。そりゃあ現代の日本人目線からすれば、その態度は振られるわと思うけど、、男の人には分からない部分があるのかなあなんて、ゴダールもこれアンナカリーナと別れて作ったんでしたっけ(?)
軽蔑って言葉に何とも決定的な破壊力がありました。女は女であるみたいに、なんだかんだ元どおりになるとタカをくくって見てきたので、あれよあれよとどん詰まりして振られるポールを見ていて、これは完膚なきまでにやられたなと思いました。大失恋ってなんだか男のロマンですね。
ゴダールの作品はあまり見ていないのですが、これはたぶん分かりやすい方かと。
それでも「オデュッセイア」や詩の引用がいっぱい出てきて、あ〜、こういうのが全部分かれば違うんだろうな〜と。
モラヴィアの原作の方は前に読んだことがあって、それ以来ずっとカプリ島に行ってみたいと思っていますが、まだ果たせず。もしかして一生行かれないままかも。
だからこの映画、期待して見たのですが、カプリ島に行く前が長い。隣の席の人は寝てしまいました。
BBを映画館で見たのは私は初めてだったかも。本当にきれいな体です。
赤や青の使い方にも、もちろん意味があるんですよね。ブルネットのかつらにも。
一年の最後に映画館できれいな映像を観ることができて良かったです。
ぼくの年齢ではまだ、この映画の良さが半分もわかっていないんだろうな、と映画を見て思った。だけど、本当に美しく、素晴らしい作品だということはとても伝わった。
まず、映像と音楽が素晴らしい。赤と白のバスタオル、青い海、黄色いバスローブ、色彩が鮮やかですごく素敵。そして、ジョルジュ・ドリリューの音楽が本当に綺麗で最高でした。
どうして、女性は旦那を軽蔑するようになるのか。この映画の、夫婦間でのちょっとしたすれ違いが大きな溝になる、という部分が僕には少し理解が難しかった。大人になってもう一度必ず見ると思うので、現時点では星4。
当時ハリウッド側からプログラムピクチャーを撮らされていた名匠F・ラングを起用したところや、アメリカ人の映画プロデューサー・プロコシュ(ジャック・パランス)を俗物として描いたところにも、ゴダールが何を軽蔑していたのかが明確に伝わってくる作品だ。
「なぜ、愛する者の間にも金が入りこむのか」優柔不断の雇われ脚本家ポール(M・ピコリ)が劇中告白するように、大衆が望むものと芸術家の志向するものとの隔たりが、そのままポールとカミーユの心のすれ違いとなって描かれる。繰り返し挿入される主題曲が、ヴィスコンティのごとき演劇的空間に観客を誘い込み、普通の映画とは一味ちがうゴダールらしい演出が光っている。
劇中劇のオデュッセウスとペネロペイアになぞらえた悲劇は、ポールが隠し持っていた拳銃ではなく、カミーユの心中ともいえる事故によって幕を閉じる。「シレンシオ(静かに)」ただ静かに青く広がる地中海に放たれたこの言葉は、かまびすしく映画に横槍を入れたがる製作者たちに向けられていたのかもしれない