巨匠・黒澤明が構想10年・製作費26億円をかけて完成させたライフワーク的作品で、シェイクスピアの悲劇「リア王」をベースに毛利元就の「3本の矢」の故事などを取り入れながら、裏切りと憎しみの中で殺し合う人々の姿を壮大なスケールで活写した戦国時代劇。70歳を迎えた猛将・一文字秀虎は、家督を3人の息子に譲ることを決意する。息子たちの団結を信じきって自らは隠居を望む弱気な父に対し、3男の三郎は異を唱えるが、怒った父に追放されてしまう。しかし三郎の予想通り、兄の太郎と次郎は秀虎に反旗を翻し、血で血を洗う骨肉の争いが始まる。ワダ・エミが衣装を担当しアカデミー衣装デザイン賞を受賞。公開から30年を経た2015年に4Kデジタル修復版としてよみがえり、第28回東京国際映画祭「Japan Classics」部門で上映された後、17年4月より劇場公開。
乱コメント(20)
これほど、良いところが皆無に成し遂げる、黒澤明は天才バカボンである、のだ。
映像は確かに凄いが中身が薄い。私は黒沢明は余り評価していない。娯楽映画は良いが、深刻な材材になると描き方が途端に青臭くなるから。女の描き方も下手だし。本作でも原田美枝子のシーンはこちらが恥ずかしくなるくらいの演出の下手さ。原田美枝子もこの頃はまだまだで「蜘蛛巣城」の山田五十鈴の凄さには到底及ばない。草原でピーターが踊るシーンもぎこちない。もっとどろどろした人間ドラマに出来たのに、絵としての美しさを優先したのかな。まあ、それも映画の一つのあり方ではあるけど、私には燃える城を背景に虚ろに歩く仲代達矢よ映像しか目に残っていない。
また美術セットよし、衣装よし、撮影よしと、さすがは「世界のクロサワ」の実力の一端を見る思いだったが、これもまたデフォルメされた老けメイクが不自然な仲代達矢ではなく、老将・一文字秀虎に実際の年齢も近かったはずの三船敏郎で見たかった。
「原作のリア王が書かれた時代と現在とでは観客が違う。シェイクスピアの時代、観客は強力な王様がどれほど重要なのか肌で感じていた。彼が死んでいくこと、そしてその息子達が争うことがどれほどの悲劇のなのか彼らは知っていた。彼らの心の中にはいつも他国からの侵略の恐怖があった。だが今の映画ファンはそうではない。脚本はそれを説明しなければならない。キングがどのように強かったのか、どのように賢かったのか、どのように恐れられ、どのように愛されていたのか・・・」
これについて「七人の侍」や「切腹」で有名な脚本家の橋本忍もその自伝の中で同じ意見を述べている。
だが黒澤はアドバイスを無視して自分の書いた脚本のままで映画化した。彼の全盛期の傑作は彼らのアドバイスの賜物だったというのに・・・
そしてこのような酷い失敗作を作ってしまった。原作にはケントという人物が出てくる。その人物がリアを守ろうとする。 それによってリア王がかつて、いかに優れていて、いかにリスペクトされ、そして現在もいかに重要なポジションにあるのかが表現できている。リア王を守ろうとすることは同時に国家を守ろうとすることになるのである。それが上手くいくかどうかということが当時の観客にとってはとてもスリリングでだったのだ。
シェイクスピアは作品の中でこのような工夫をしているのだが黒澤はしなかった。彼の脚本でケントは縮小されリア王の惨めさが拡大された。スケールの大きなドラマとしてのリアリティが失われ、単なる老人が惨めになっていくドラマになってしまった。
それまで強権を振っていた王が突然耄碌したら周りはもっとパニックになるはずだ。原作では子供たちが娘だったので政治を知らない軽率な振る舞いをしてもリアリティがあった。そしてその夫たちの行動には慎重さがあった。乱ではリア王の娘たちのままに新王たちがマヌケな行動をとっている。前王の影響力を恐れて新王や側近はもっと慎重に振る舞うはずだ。そのように描いておけば前王とタッグを組んだ時の三男の持つポテンシャルが暗示され、前王がいっくら惨めになっても観客はそこに期待して最後まで映画を楽しめたことだろう。
・・・写真も全然美しくないし、演技も学芸会レベル。これは駄作中の駄作である。
全くの傑作で世界の映画賞の数々を受賞するのも当然です
黒澤明監督の最高傑作の一つと言って良いと思います
とは言え既視感があります
それは黒澤明監督が本作の30年前に撮った1955年の作品蜘蛛巣城のことです
蜘蛛巣城はマスベス、本作はリア王の翻案です
ですから筋書きは全く別です
ですが既視感があるのです
マスベスもリア王も観客がその筋書きをみな承知しています
それでも面白く、また翻案のレベルも高く完全に日本の物語になっている点は本作も蜘蛛巣城も同じです
しかしそれが既視感という訳では、ありません
一体何が既視感をもたらすのか?
まず似たシーンが多く有ります
原田美枝子の楓の方が入れ知恵をするシーンです
彼女の鬼気迫る演技は素晴らしいと思います
しかし、これは蜘蛛巣城での山田五十鈴が演じた主人公の妻に相当するシーンで既視感が有ります
そして、山田五十鈴を上回ったかというと空恐ろしさでは上回ってはいなかったと思います
比較してしまうのです
また三の城の落城シーンも蜘蛛巣城のクライマックスと相似形です
スケールがより大きくなっていますが、これもまた既視感があります
横殴りの雨のような矢の嵐は蜘蛛巣城の強烈さを上回っていたと言えるでしょうか?
これもまた比較してしまうのです
白黒映画時代の蜘蛛巣城でやりたかったことをカラー撮影で再度やり直した感があるのです
フランスの資金を得て潤沢な製作費で、黒澤監督の完璧主義を満足させて撮り直した蜘蛛巣城といった体なのです
マスベスとリア王との物語の違いはあれども、本作は結局のところ、蜘蛛巣城のリメイクだったのだと思います
主演の仲代達矢は正に当て書きそのもので、彼にしか演じれないものでしょう
完璧であると思います
狂阿弥のピーターは本作の独自のものですが、中性的存在の期待された役どころを発揮出来ていたかというと不足していたと思います
また狂言としての芸のレベルが今一つ低く、観客を感服させる域に達していないのは残念でならないと思います
その点、盲目の鶴丸を演じた野村武司の方が遥かに存在感を示しています
お末の方の宮崎美子ともども、もっと画面に登場させれば、本作のテーマをより一層陰影を付けれたのではと感じました
撮影は色彩の鮮やかさ、望遠を多用していながら、手前から背景まで全ての焦点の合い方など驚嘆すべき映像がとれていると思います
影武者の撮影よりも格段に優れています
衣装、セット美術もまた世界最高峰のものだと思います
影武者よりも美術の統一感が上がっています
戦闘シーンの数百人の隊列の動き、数十の騎兵の猛速度の表現、戦闘の推移の簡潔な表現
黒澤監督にしか撮れない映像です
これも影武者の経験を踏まえてより的確に効果的になっています
音楽も影武者のような無理矢理な西洋風味ではなく、西洋のクラシック音楽でありながら日本的であり重厚さを失っていません
蜘蛛巣城の既視感はあれど
本作はやはり名作であるのは間違いの無いことです