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さらば、わが愛 覇王別姫コメント(18)
大きくなって二人は大スターとなり、兄弟子は淫売の女(コン・リー)と一緒になる。
日本軍の侵攻、降伏、国民党から共産党へ、そして文化大革命と中国現代史を生き抜く。
京劇の美しさと歴史に翻弄される人々の生きざまが強烈で、とても印象深い。
衣装も化粧もした二人、石頭と蝶衣が立って並ぶところがとてもいい。大柄で背の高い石頭の横に立つ小柄な蝶衣。その佇まいが映画の最初と最後におかれている。そのシーンがすべてを語っていた。蝶衣が愛らしくて涙が出る。
蝶衣は男性の装いの時も、足さばき、立ち止まる、振り返る、寄り添う、発声と話し方、笑顔、眼差し、師匠の前にひざまずいた時の足が正座重なりをしているなどすべての身のこなしが(一昔前の)歌舞伎の女形の役者さんと同じ。こんなこと稽古無しに一朝一夕にできる訳がない。
そして衣装と鬘をつけて顔を作って照明を浴びた舞台の上の姿は美しく官能的で、嫋々とした、という言葉は蝶衣の為にあるとしか思えない。
あまりに蝶衣に感情移入してしまったので、菊仙憎し!になってしまった。前の方の席に座っておいて芝居が終わらないのに途中で帰る菊仙ダメ!お行儀も悪い!海千山千の菊仙は計算づくの芝居じみた言動をして嘘をつき、何度も石頭を蝶衣を、沢山の人を騙した(コン・リーが上手い役者だからこそ)。でもそんなこと、最初から蝶衣にはお見通しだった。
苦界から抜けたい彼女の思いはわかる。けれど母からやむなく捨てられ折檻に耐えながら居場所がそこしかない所で歯を食いしばってきた男の子が、体をはって涙を流して守ってくれた石頭と離れられる訳がない。蝶衣が阿片中毒から立ち直るために苦しんでいた時に抱きしめてくれた菊仙は、でもその時だけは蝶衣の母だったかも知れない。
(大人になってからの)石頭は男気はあるけれど単細胞で凡庸な男だ。菊仙の手のひらの上で完全に転がされていたし保身の為に大事な二人を裏切った。少なくとも芸術や美の側の人ではない。蝶衣が居たからこそ彼は輝けたんだ。
蝶衣は芯が通った男だ。法廷で嘘をつかなかった。日本軍は自分の体に指一本触れなかった、青木が生きていれば京劇を必ずや日本に持って行ったはずだと述べた。日本人は京劇の素晴らしさと美しさをわかっていると、歌い踊りなから蝶衣は感じたからだ。それに、大嫌いな菊仙の入れ知恵を諾々と受け入れたら菊仙に借りができる。それだけは絶対にい・や・だ!と思う感覚は、女だ。
戦後、歌右衛門が凄く悩んだという時期のことが頭をかすめた。女形としての大変さと立ち位置、計り知れない苦悩があったんだと思う。玉三郎が京劇を演じたことを蝶衣が知ったら喜んだと思う。
面白くてなるほどと思った場面も沢山あった。旗や銅鑼の音に立ち回りの場面は、若き猿之助(今の猿翁)が昆劇・京劇から取り入れたスーパー歌舞伎を思い出させてくれた。
パトロンの爺さんの目にとまってしまった小豆が布にくるまれて担がれて爺さんの部屋に運ばれる場面。小説で読んだような気がする。若く美しい女性が殿様(?)みたいな人の所に運ばれた時もそんな風だった。そういう運搬方式が中国の習慣だったのかな?
スターになった石頭と蝶衣がスーツ姿で写真館で撮影。その後それぞれが人力車に乗っている場面で、蝶衣には赤い日傘をさしかける人がついていた。乳母日傘!
歌舞伎では男も女形も顔は全部自分で作るけれど、京劇では男の隈取りは女形が描いてあげるのか。
通常の演出では7歩の所が君は5歩だったねと、京劇の大御所が石頭に言う場面。歌舞伎好きもそういう話をよくする。勧進帳で弁慶は棒(正式名称忘れた)を逆手で持った持たないなど。どこの伝統芸能もそうなんだと笑えた。
京劇にはカーテンコールがあるんだ!
表情は変わらないのに、涙が右の目からつぅとこぼれる箇所はもう駄目でした。
中国はこれからどこに行くんだろう?あれだけ芳醇な文化と芸術と歴史をもった国。自由な香港と共生するという、新しいタイプの国の形を可能にしていた国。
久々に心底、「観てよかった」と思った傑作。
京劇「覇王別姫」を軸に、蝶衣・小楼・菊仙の愛憎劇と近現代の中国を壮大に描き、しかも見事にバランスが取れている。
レスリー・チャンが演じる蝶衣の性別を越えた美しさは奇跡的!「美しい」という形容詞では足りないほどの存在感‼
蝶衣の演劇でのパートナー・小楼への叶わぬ愛と憎しみ、小楼の妻・菊仙への激しい嫉妬、そんな自らへの絶望と苦悩。
そして時代や体制が変わっても失う事のない京劇への矜恃。
まるで人生や魂が「覇王別姫」の虞姫とリンクしていくようで圧倒される。
単純に、同性愛やボーイズラブと言う言葉では括ることができない格調高く、哀しい男たちの物語です。
なのに、この愛、この仕事。それを失くしては、自分が自分であり得ないくらいにすべてを注ぎ込む生き方。
こんな生き方ができた程蝶衣をうらやましくもあり、切なすぎて、むせび泣いてしまう。
様々な思惑が、時代とともに、蝶衣、段小楼、菊仙の生きざまに絡み、翻弄されていく様を中心に、変わっていく時代を描き出した大作。
なんだろうけれど、正直、小楼の存在感がありきたりの演技なので、人間の業を演技で滲み出させた、蝶衣(レスリー・チャン氏)と菊仙(コン・リーさん)の二人の対比を際立たせるだけの狂言回しのように小楼が見えてしまう。
蝶衣は、小楼の弟弟子で、劇の上での女房役。けれど蝶衣にとっては、そう育てられた経緯も影響して、小楼は唯一無二の”愛しい人”。
だが、小楼はその思いを知ってか知らずか、菊仙と結婚する。
菊仙にとって、蝶衣の想いは邪魔でしかない。
幼少期~少年期にかけては、地獄のような生活を強いられ、花形女形になった今でも、パトロンから呪縛されているとはいえ、芸を極める以外に自ら”幸せ”をつかみに行くでもなく受け身な蝶衣と違い、娼婦であった菊仙は”幸せを”つかみに行く。
そんな二人が、時々の権力者や民衆に翻弄されて、その時々のありようが変わっていく。その様が、人間の業をにじませ、時にいやらしく、時にせつなく、時に悲劇で、時に幸せそう。そんな二人の姿が、時に合わせ鏡で、時につながり、時に不協和音を醸し出す。見事。
とにかく、レスリー氏が美しい。その思いを称えたまなざし。唇。所作。すべてに目を離せない。受け身で、なよなよしているようで、確固たる意志がある。大人(たいじん)としての風格がありながらも、ガラス細工のようなもろさも抱える。「男でなく、女」という舞台上の台詞を幼いころは「女でなく男」と何度も間違えるが、女のような身振りをしていても、男として生きたのだ、男として小楼を愛したのだと思わせてくれ、小楼と舞台を失っては生きていけぬほどの想いを体現してくれる。
小豆子を演じたマー・ミンウェイ君も見事。日本に出回っている映画ではその後を聞かないが、中国では映画か京劇で活躍していてほしい。
リーさんはたくましい。そのたくましさが美しい。”幸せ”を自らつかみに行くが、その”幸せ”は自分が良ければというものではない。愛した人の幸せをまず考えて動く。だからこそ、ラストがやるせない。
そして、小楼。幼いころの小石頭は周りを助けるリーダーシップを持っていたのに、大人になってなぜこんなになってしまったのか?単なるチャン・フォンイー氏の演じ方の問題なのだろうか?小石頭はとても魅力的で、蝶衣の幼いころ:小豆子が慕うのも理解できるけれど、小楼はちっとも魅力的でない。容貌ではない。大人(たいじん)としての風格がない。こんな男だからこそ、ラストのあの様につながるのかもしれないが。
小楼は蝶衣の想いを知っていて、気が付かぬふりをしたのだろうか?だから結婚を急いだのだろうか?だが、フォンイー氏の演技からはそんな様子は感じ取れない。
反対に小楼は、まったく気が付いていない天然バカなのだろうか?小石頭を演じた子の演技ならそんな風にも読み取れるが、フォンイー氏の演技では、そうも思えない。
だから、蝶衣と菊仙が小楼をなぜ愛するのか理解できない。菊仙は娼館に戻りたくない意地?蝶衣は舞台での一対の地位をとられたくないがための意地?に見えてしまって、残念。
三人の歯車が微妙にずれたところにあの文化革命が重なっての展開となれば、これ以上ない人間ドラマになったと思うのだが、小楼の演技が弱いので、たんに、歴史に翻弄された三人のあり様を描いた映画のように見えてしまう。惜しい。(なので、0.5マイナス)
とはいえ、たんなる三人の愛憎悲劇としてだけでなく、
蝶衣の一代記としてだけでなく、
時代を描いた作品としても見ごたえある。
しかし、戦中、中国にひどいことをした日本ではなく、かっての蒙古・満州民族とかの異文化民ではなく、中国・自国の民が、自分たちのあれほどの文化遺産を意図的に壊すなんて、なんて国なんだろう。
京劇役者養成制度はとてもひどい。バレエダンサーも人間業ではないようなポーズをとれるようになるための訓練をするけれど、今のバレエダンサーは、自ら志願した人ばかり。この映画のあの子どもたちは、好むと好まざる関係なく、それをしなければ生活できない。そんな奴隷のような制度はなくした方がいいに決まっている。
とはいえ、他人が強要する共産主義の自己批判なんて、たんなるやっかみにしか見えない。一見華やかな地位にいつつも、蝶衣がその中でどんな思いで生きてきたのか、どんな努力をしたのかは無視される。それでいて、京劇が復活すれば、また持ち上げる。そんな民衆の身勝手さが怖い。
蝶衣と菊仙は、そんな時代に翻弄されたのか、こんな時代に巻き込まれたからこその人の気持ちの変容に翻弄されたのか、それでも、京劇・小楼への想いを自分なりに貫いたのか?それが幸せだったのか、不幸せだったのか。私の中の答えは、その時々で違ってくる。
歴史的背景を理解していれば素晴らしい作品であろうが、私の頭では歴史についていけてない。
淫売女が子供を無理やり劇団に置いていく。
子供は厳しい修行という名の虐待を日々受けながら成長し、見事に主役を射止める。
京劇の女形。身も心も女になりきるうちに、兄と慕う覇王役に依存する。
見ているうちに男である事を忘れるほど美しい。
嫉妬に狂い、戦争に巻き込まれ、阿片中毒になり、まさに時代に翻弄させられ続けた人生。
京劇のラストシーンと同じ末路を辿ったであろうラストは見事です。