底抜けもててもてて
プロット
アメリカ
11月08日 1961 劇場で
子どもの瞳をみつめて
プロット
フィリピン
04月29日 2023 劇場で
夢の涯てまでも
プロット
日本・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストラリア合作
03月01日 1992 劇場で
SEE HEAR LOVE 見えなくても聞こえなくても愛してる ディレクターズカット版
プロット
日本
07月07日 2023 劇場で
もういちど愛して
プロット
フランス
04月15日 1972 劇場で
もういちど殺して
プロット
アメリカ
01月19日 1991 劇場で
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寝ても覚めてもコメント(20)
久しぶりに、映画を見て感動した。同じように感動した人が多いのだろうと思って、レビューを読んだら愕然。同じ映画を見て、ここまで受け止め方が違うとは・・・。
朝子を、「ホラー」だとか「怖い」、「性悪女」と評価する人は、この映画を誤解していると思う。朝子ほど、純粋な子はいない。麦と出会って、いきなり唇を奪われる。おそらく、朝子のファーストキスだったはず。一瞬にして恋に落ちて、そして麦は去っていく。「必ず帰ってくるよ」という無責任な言葉を残して・・・。朝子は純粋だからこそ、その後、何年も麦を待ち続けることになる。
亮平との関係がぎこちないのも、朝子が麦の言葉に縛られていたからだ。亮平が麦とは別人であることを意識する度に、亮平を避けようとする。「夢の世界の麦」と「現実の世界の亮平」は、見た目はそっくりでも、朝子にとっては別人なのである。それでも、被災地支援をする過程で、朝子は徐々に亮平の内面に惹かれていく。しかし、亮平の内面の美しさは、皮肉にも、「夢の世界の麦」を美化することにもつながる。
朝子が、亮平ではなく、麦を選んだのは、朝子が「性悪女」だからではない。「純粋」だからこその必然であった。しかし、東北の海岸で、ようやく夢から覚めることになる。防波堤の向こう側の海の存在を知らなかった麦に「軽薄さ」を感じる。同時に、亮平というかけがえのない人を失ったことに気付いた瞬間でもあった。
川辺沿いに、亮平を追いかける朝子に、日が差していく場面が美しい。二人の将来を暗示している。「一生、お前を信じることができない」という亮平の言葉は、「それでもよいのなら、もう一度、やり直そう」という朝子へのメッセージでもあった。亮平の怒っている姿は、目の前の濁流とシンクロする。そして、朝子は、濁流を見て「美しい」とつぶやく。川の流れが途絶えることがないように、二人の愛は続いていく。
脇も達者な俳優たちが固めているが、おおむねシリアスな展開の中で、伊藤沙莉のコメディエンヌぶりがほどよい息抜きをもたらしてくれる。
柴崎友香の原作は「麦」と「亮平」に似ているという要素はあるものの、年齢や身長などに相違点があり、瓜二つと思っているのは朝子だけかも知れない、という思いが読者に付きまとう。その分「麦」に一途にのめり込む朝子に、男女逆転はしているものの、まるで牡丹灯籠のような死出の旅路を感じさせるような不安を感じる。
一方、映画版は東出昌大が二役を演じることで、瓜二つという部分に重きが置かれてはいるものの、大きな交通事故を起こしても怪我一つ負わない、縁がなくなった友人が難病に罹ってしまうなど、麦が持つ超常的な能力の一端を原作以上に感じられる演出となっている。
監督は「麦は宇宙人で地球に感情を学びに来て、学んでいる途中という裏設定」を原作者から聞き作品を理解したと言っており、異種・異形の者と恋に落ちた女性の運命を、無理なくリアルに映像化している。
以前からの濱口ファンであれば、「親密さ」の舞台劇や「ハッピーアワー」の朗読シーンのような映画内の物語、そして落語「黄金餅」の道中付のような、街を魅力的に捉えた長尺のシーンといった、監督ならではの要素が薄いことに肩透かし感を抱くかも知れないが、この不思議なテイストの原作から、1本の映像作品を見事に生み出した監督の、新たな才能の一面が見られたことの方に大きな喜びを感じるだろう。
友達や周りの人のほうが自然だった。
二人はやはり不自然だった。
小説をやはり読むべきか。
怒り心頭のまま、観終えた作品となった。
終盤、麦と北海道へ向かう途中で
車から降りた朝子へは、
亮介に
「あいつに似てたからで朝子と付き合えた」
「実は俺、めちゃくちゃラッキーちゃうか」
とまで言ってもらえ、
麦よりも何倍も一緒に過ごした亮介との日々
があるのに、この逃避行はなんなんだ!
目の前の海に入水してしまえ!
と言い放ちながら観ていた。
麦と朝子には人を愛することへの
責任と覚悟が無い。
「シェルブールの雨傘」や
「ラ・ラ・ランド」の2人のような、
やむを得ず他に愛する人が出来た相手への
理解も思いやりも無い。
人を愛するには
まだまだ人間が出来ていなく、
もっと人間性を磨いてから人を好きになれ、
というレベルだ。
そんな人間像に付き合わされる映画が、
キネマ旬報第4位というのは腑に落ちない。
家族や運命の人との消失体験は
多くの人が持つので、人間形成の話に
3・11を都合よく使って欲しくはない。
亮平は最後に寛容の心で朝子に接するが、
「俺は一生きっと、
おまえのことを信じへんね」
との彼の言葉通りに、
私には2人の行く末には暗雲しか感じない。
また、寛容を受けてる側の朝子の
目の前の汚い川を見ての「きれい」との
締めくくり科白も自分本位過ぎるままだ。
この映画では、麦と朝子の行動を若気の至り
としたいのかも知れないが、
実は単なる人間レベルの問題ではないのか。
俳優というものは、
どんなに否定的すべき人物像を
演じたとしても、
逆説的に人間道を学べるものかと思うが、
実生活でのその後の不倫騒動で
この映画の世界を実践してみせた
主役の2人は、この作品出演を通じて
何も学ばなかったのだろうか。
映画の中での未熟な2人が、
実生活での実践へ繋がっていった
との意味では皮肉に感じてしまう作品だ。
しかし、若いと未熟は同義語、だ。
しばらくは読書等で人格形成などに努め、
いずれは我々の前への成熟しての再登場
を期待したい。