昭和11年に起きた「阿部定事件」を題材に、大島渚監督が男女の愛の極致を描いた問題作。料亭「吉田屋」の住み込み女中となった定は、店の主人の吉蔵とひかれあい、情事を重ねる仲となる。やがてその関係が露呈したこと2人は駆け落ちし、さらなる愛欲の世界におぼれていくが……。性愛を題材にした作品が日本で十分に制作できるかという懸念から、フランスから輸入したフィルムで撮影を行い、撮影済みの生フィルムをフランスに直送して現像・編集するという方法で完成させた。日本公開版は修整が加えられたが、芸術か猥褻か表現の自由をめぐって論争が巻き起こり、後に出版されたシナリオ本をめぐっては裁判に発展するなど大きな注目を集めた。海外では1976年のカンヌ映画祭で上映され、芸術作品として高い評価を受けた。2000年12月には初公開時にカットされたフッテージをほぼ完全に復元したバージョンが「愛のコリーダ2000」として公開された。2021年4月にも「愛のコリーダ
修復版」としてリバイバル公開。
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愛のコリーダコメント(15)
定「なにがおかしいのさ」
吉「いやな俺のチンポコはな小便に行くあいだしかお休みがもらえねーんだなってさ。そう思ってたんだよ」
定「ああそうだよ」
定「だって吉っつぁんのは一回終わってもすぐ硬くなるんだもん」
定「ほらこんなに」
吉「なるほどな。まるでおめえのもちもんみてーだな」
定「私のものだよ」
定「ねえどうして吉っつぁんのおちんちんはすぐに勃つんだい?」
吉「それはな。お前が欲しがってくれるからだよ」
定「また欲しがっているよ」
アマゾンで購入したDVDを鑑賞
その前に海外版BDを輸入したが日本のプレーヤーでは観ることができない事を知りがっかり
ボカシが憎い
表現の自由が聞いて呆れらー
無修正版観たさに海外旅行したくなった
でも藤竜也のは観たいけど殿山のは観たくないな
吉蔵は定や嫁だけじゃなくいろんな女とやりまくりである
定は嫁とやる事を怒るくせに嫁以外の女なら吉蔵にやれとけしかけることに矛盾を感じだが見終わったあとしばらくして矛盾していないことに気づいた
高齢の芸者やおかみさんまで犯してしまうとはAV男優も兜を脱ぐだろう
人目憚らずやりまくりには呆れてしまう
芸者さんたちが見てる前で芸者の三味線が鳴る状況でやっているシーンは面白かった
仮面ライダーストロンガーで岬ユリ子役を演じていた岡田京子が半玉役でヌードになっていたのは知らなかった
松田瑛子は新人のためか前半は演技が下手くそだったが後半はだいぶ上手くなっていた
この作品のせいでその後ダメになったという意見もあるがこれに出たからこそ松田瑛子という女優の名が邦画の歴史に深く刻まれたのだから彼女の選択は間違っていない
性器を切り取るシーンはグロい
定と吉蔵のセックスは本物だがこれは擬似のはず
それがわかっていても気持ち悪かった
全裸の小さな男の子と女の子がはしゃいで走りまくるシーンあり
変態は必見
これに比べたら『愛の渦』とか『愛の新世界』なんてままごとだ
それにしてもなぜタイトルが『愛のコリーダ』なのか?
フランス版では『官能の帝国』らしいがそっちの方がしっくりくる
あと阿部定といえば阿部サダヲである
本名の苗字が阿部だからといって阿部定に因んで阿部サダヲとは安直なネーミングセンスだよ松尾スズキ
これじゃ石川だからゴエモンという渾名をつける千葉ロッテの選手と同レベルじゃん
でも芸名が死体写真になるよりマシか
-映画『愛のコリーダ』は実にさりげなく大島的シーニュを画面に遍在させながらも、観る者にその強制力を剥奪させる独自の演出力が認められる。それはイマージュとリアリズムを犯罪者と被害者、或いは共犯者に共有させ、それを決して愚弄せず、寧ろこの吉と定を崇める対象とする事で齎される神話作用を司るヘゲモニーを握る大島渚監督のノエマが実に濃厚に刻み込まれた、これは第二次世界大戦直前の予行演習にも準える愛の闘争劇として立派に流通する一個のバイブルとも謂えよう。それはどこまでもグロテスクであり、それをファルスに転化させる記号の遍在にこそ目を向けたい欲望に駆られる実に幸福な映画とも謂えよう-
幸福なる時間を創造する映画監督とは、観る者にもその時間を共有させる、まさに天使にも等しいステイタスを誇示する人。この『愛のコリーダ』と呼ばれる映画は、そんな幸福なる瞬間の連続体として君臨する大島渚という固有名詞が生んだ奇跡的と言っても決して過言ではない佳作であろう。
ここには、あくことなく展開される性戯が愛憎のコード化から逸脱する時に齎される生死を賭した四畳半のコロッセウムという仮想のトポスを、事件の現場に変容させる説話が確認されるのだ。それを人は、ヒロインの阿部定にイヴを措定させ不可視の空虚なる空間にアダムにも準える吉の魂を漂わせるエデンの園での、至高なる愛の物語とも謂える。
例えば、吉の息の根を止める定の行為には、殺意というよりも愛情のほとばしりが認識できる。それは、首を締められる時の吉の喉仏を一際強調するかのように、その円形がデフォルメされる。
ここに於いて、大島的シーニュとしての円形というフォルムへの執着が確かめられる。この球形への誘惑は、最初は屹立していた勃起したペニスにも酷似する徳利が、最期には丸型となり定の遊具として独楽の役割を与えられる。それは、吉のペニスが次第に劣等的な位置に追いやられ、サディストとして高ぶる女陰にも似た丸型の徳利が廻す対象として君臨する。ここに、円形の優位が確認されよう。それは吉が劣勢となり、定が女帝としてこの四畳半という空間を占拠する最期に相応しい儀式としてのペニス切断をも向かえる事となる。
しかも映画中盤の夜の場面で、これも大島的シーニュと符合する俯瞰撮影で捉えられる雨中の屋外で番傘を廻しながら定と吉が決して性戯ではなく、遊戯的特権を行使するかのようにお互いが旋回する場面。ここにも、円形へのこだわりが窺えよう。それは屋内の畳部屋で、定を中心に据えすっ裸の少年と少女が彼女の周囲を廻る場面とシンメトリーな関係を保つ。
この二つの場面には大人と子供の遊戯性が、実に他愛のない未熟さを共示として純粋無垢な子供達と男女の酸いも甘いもかぎ分けた恋愛の達人の定と吉の、無償とも謂える未完成の関係を観る者に提示するのだ。ここでは年齢差という差異よりも、幼児性の露呈があり、人間が根源で受け持つ未成熟への憧憬が確認されよう。
更にこれと供応するであろう場面に相当するもうひとつの対となる場面が、最期の円山公園の客席でのイマージュの場面。半裸に近い定を四角い仕切りの中心に据え、その周りを死んだ吉と少女が廻る無人の客席が、その冬の異様さを称える。ここでは廻る二人が理不尽にも親子を演じる事で、生に耽溺する定を中心にしてその周縁を廻る事が冥界に於ける輪廻転生を仮想として具現化させるのだ。ここに於いて、六道遊行に旅立つ吉と仮想の少女は犯罪者として生きる事を決意する定を見守る為に、辺境の死界に追いやられるのだ。それは、未成熟から死を体験して到達した成熟の彼岸とも謂えよう。
そして、この映画に於けるもうひとつの記号体系として、先の傘の場面辺りから画面に実にさりげなく示された定の表象色とも謂える赤が、次第にスクリーンを占有してゆく。それは、タイトルのコリーダ(闘牛)のメタファとも謂える吉の性欲を奮い立たせる色として君臨する。
更に、これと比例するかのように吉のペニスに代表されるリニア的構造への定の嫌悪が明かされてくる。それにつれて定のサディズムをも高じらせ、やがて吉にまで伝播するこの嫌悪感は、憲兵隊の行進とは逆方向を一人吉が歩む事で時代を逆行する、まさにスクリーンという表層の領域で批評性を帯びさせるダイナミズムを観る者に抱かせるのだ。
このダイナミズムは、この映画の天候を左右する。先ずは冒頭から深々と降る雪がやがて雨へと変容する頃には、この凝固した雪が融解して雨となるのも、定と吉の性愛のパトスの高揚が恰も天候にまで関連したかのような激しさを、その性交に纏わせる。
そして二人の飲む酒はやがて二人の体液として、定には吉の肌に浮かぶ汗として自らの性欲を昂然とさせ、吉には女陰が生成する潮を醤油代わりに煮物に付け食する事で、性欲と食欲を同時に満足させる一石二鳥の快楽を完遂させる。
その異常とも謂える液体は、やがて最期には吉の定によるペニス切断から放射された血液へと変貌を遂げる。ここに赤色と血液という恋愛の彼岸を賛嘆する幸福な記号が生産され、流通する為の見事な融合の儀式が成就するのだ。それは、それまでの性交の恋愛形態がいかに未成熟に等しかったかを示す為の異化効果をも孕んだ演出で提示される。この円熟を示唆するダイナミズムとオルガスムス、そして儀式の終焉に相応しい説話的磁場を生成するラストも希有な存在であろう。
映画『愛のコリーダ』は実にさりげなく大島的シーニュを画面に遍在させながらも、観る者にその強制力を剥奪させる独自の演出力が認められる。それはイマージュとリアリズムを犯罪者と被害者、或いは共犯者に共有させ、それを決して愚弄せず、寧ろこの吉と定を崇める対象とする事で齎される神話作用を司るヘゲモニーを握る大島渚監督のノエマが実に濃厚に刻み込まれた、これは第二次世界大戦直前の予行演習にも準える愛の闘争劇として立派に流通する一個のバイブルとも謂えよう。それはどこまでもグロテスクであり、それをファルスに転化させる記号の遍在にこそ目を向けたい欲望に駆られる実に幸福な映画とも謂えよう。
(了)
ラストで、たぶん大島監督自身によるナレーションが、この事件が1936年に起きたことを伝える。2・26事件が発生した昭和11年のことである。この年代についてわざわざ言及することは、子供たちに日の丸を持たせたり、藤の歩く道に軍隊を行進させたりすることと同じ効果を発揮している。
これらの効果とは、観客が、この性愛を主題とした物語の片隅に戦争の記憶が刻みつけられていることを意識させられるということである。大島監督は、何を狙って戦争の記憶というものをこのフィルムに挿入したのだろう。初めて観た大島作品なので、他の作品にも触れなければ分からないだろう。
論戦を朝までやってるTVのトークショーに彼が出演していたことの意味合いを、何となく感じ始めた。これは、彼の作品群を観なければならないな。
いや、あれが全て必要な描写だということはちゃんと分かってる。分かってるんだけど、ねえ。男の人はああいうの見慣れてるかもしれないけれど。
時代は変わりましたからね。今はそういうのいくらでも見られるでしょうから衝撃度は低いかもだけど、当時大変な問題作であったことは容易に想像がつく。ただそれにしても、よくあれで演技ができるな、っていうところに感心した。感動すら覚えた。役者ってすごいなと心から思う。首絞めてるのだって、本当に絞めてるよね。紅潮していくのが見えるもの。
クライマックス、それまで散々ぼかしが入ってたのに、切り取ったものをゴロンと転がしたところは一切ぼかされてないことにちょっとびっくりした。作り物だっていうのが分かるからいいのかな。
ラストのナレーションが聞き覚えのある大島渚監督の声だったのがかえって新鮮味があった。あと小山明子さんがちらっと出演してることもちょっとびっくり。