男と女(1966) プロット

当時無名だったフランスのクロード・ルルーシュ監督が自ら資金を調達して製作した恋愛ドラマ。主演はアヌーク・エーメとジャン=ルイ・トランティニャン。スタントマンの夫と死別した脚本家アンヌと、妻に自殺されたカーレーサーのジャン・ルイによる大人の恋愛がフランシス・レイの音楽と美しい映像にのせてつづられる。1966年の第19回カンヌ国際映画祭ではパルムドールを、同年度のアカデミー賞では外国語映画賞を受賞した。2016年、製作50周年を記念してデジタルリマスター版でリバイバル公開。

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男と女(1966)コメント(20)

Ospmxggxns
Ospmxggxns
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2回目、25年ぶり。
二人とも子煩悩だったんだ(フランス人的に)。
部屋を注文して終わりと思っていたのに、そうじゃなかった・・・
ところどころ忘れていると持っていたら、ほとんど忘れている。
車のシーンが多くて良かった。
足にガソリンスタンドのシーンは良い!(ここは覚えていた)
同時上映の『ランデヴー』が最高!!
jtlydl
jtlydl
随分前に一度観てる。
古い映画なのに、今観ても何かと洗練されているのはすごい。

残念なのは個人的にはアンヌの仕草がちょっと気持ち悪い。髪をかき上げるのはセクシーなのかもしれないけど「邪魔なら切ったら?」と言いたくなるし、すぐ口に手をやったり…。そんなことしなくても充分美人でセクシーなのに。

後半はかなり好き。
アンヌは肝心なところで前の夫との思い出から抜け出せない。女とはそんなもの。体だけでできているわけではない。ジャンの方とて過去があるから自信があるけではない。
そこでジャンも一旦は躊躇するけれど、思い直して押しの攻勢をかける。
男の押していく力強さ。やっぱり最後に女を動かすのはこれよね〜。
過去の失敗がどうであれ、大人になってもやはり未来に向かって生き、幸せになることを望む方がいいに決まっている。
ここで理窟は必要ない。だから台詞も必要ない。そんなシーンを小粋にまとめてくれている。
Sopsghxmnki
Sopsghxmnki
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幸せの絶頂で愛する人を失っても人生は続く。子供は大きくなるし独身の暮らしに慣れなきゃいけない。

そんなとき出会った素敵なひとに、そりゃ恋するでしょ。

アンヌの死んだ旦那のサンバの歌声が優しくて、生前の思い出があまりにも幸せそうで、ずっと思い出に浸って生きてくこともできるんだけど。

でもやっぱり恋に落ちるのは止められないし止めなくていいでしょってラスト。

せっかく結ばれたのにアンヌがいろいろ思い悩んでどうなることかと思ったけど。
愛が理性に勝った瞬間、見つめ合って無言で抱き合うラストシーン最高でした。

てか、自分が女やからアンヌに感情移入したけど
男の人が観たらまた違う感想なのかな。
dovglf
dovglf
まぁ折りに触れたびたび言っとりますけども、名作として世に残ってる作品は良さが古びないし、時を経てむしろ良さが増して感じられるってやつですよね。

なんつってもヒロインのアヌーク・エーメがゴキンゴキンに美人。パリの街並みを背景にしたイメージショットなんて田舎のオジサンの僕ですらウットリしちゃう。

物語に描かれる大人の男と大人の女の恋愛には、波乱万丈な出来事はさほどなく、オーソドックスな「惹かれ合い」の話なんだけど、それゆえ密かなドキドキにゆっくりと盛り上がっていき、顛末がしみじみと切なく余韻として残るのです。当時の「イケてる男の最高値としての職業」がカーレーサーだったんでしょうかね、レーシングカーの場面がムダに多いような気がしなくもないんですけども、男の激しい恋心がエンジンの爆音に表現されていて、それと対比的に描かれる冬の海岸の静かさが心に染みますね。

男としての僕にとっては、この男と女、どっちがどこで間違えたとかではなくて、「あるある、そういう“めぐり合わせ”ってあるのよねぇ」って、受け入れられる気がする。
ただ映画見としての僕にとっては、あのラストシーン、ちょっとどうかなと、思わなくもない。

あのラストシーンの後、その『男と女』はどうなると思う??

そういう話を、この映画を観た男と女が語り合うのもいいかもしれないですよね。

そして『男と女 人生最良の日々』もそれゆえに楽しみ。
jhktjm
jhktjm
たとえば、チャップリンの「キッド」(1921年製作)「街の灯」(1931年製作)を観てみよう。
そこには、人間が生きることの根源的な悲しさ。そして時に「愛」は、残酷な一面をみせることも描かれる。
しかしチャップリンは、作品の中で「人生を生き抜くこと」の素晴らしさも同時に伝えようとしている。
これらの作品は大昔に作られている。
一年前、テレビで大流行りだった芸人のギャグは、今はもう、誰も笑わない。
そういう21世紀の日本でも、90年前のチャップリン映画は十分面白く、ときに「ワッハッハ」と笑えてしまうのである。
そこにはつまり、人間であればここはこう思う。人間であればここは悲しく思う。
人間であればこのツボを突けば笑う。
というある種の真理。
どんな時代であれ、人間の普遍性というものは変わらないことに気づかされる。
愛は崇高なものだ。
人間は音楽を愛し、笑いを愛し、そして異性に惹かれる。
愛は時に人間を盲目にさえする。
その逆転パターンがチャップリンの「街の灯」だ。
盲目の貧しい花売り娘は、浮浪者チャーリーを大富豪だと思い込んだ。
チャーリーは彼女に一目惚れし、一念発起、彼女のためにひたすら働く。
その献身的な働きの末、盲目の少女は手術を受けて眼が見えるようになる。
ラストシーン。
彼女の目の前に現れたのは、みすぼらしい浮浪者のチャーリー。
浮浪者は彼女に尋ねる。
「もう、見えるの?」
「ええ、見えます」
一輪の花を手に持ち、彼女の声に、ただ微笑む、浮浪者チャーリー。
映画はここで終わる。
愛はなんと残酷なのだろう。
「眼が開かれる」「現実を見る」ということはなんと残酷なのだろう。
そして愛は、やはり人間が持つ、最も崇高で美しい特質なのだ。
「キッド」や「街の灯」はサイレント映画である。
セリフすらないのだ。
しかし、21世紀の今観ても、やはり「名作」であり、映画芸術の「傑作」であり続ける。
さて前置きが長くなった。
本作「男と女」
公開50年を記念して、デジタルリマスター版での再上映である。
これを観てみたいと思ったのは、五木寛之氏の短編小説集「雨の日には車をみがいて」(僕はこの初版本を未だに大切に持っている)が大好きだったからだ。
この短編集の最初の方に、映画「男と女」のモチーフが引用されている。
五木氏のファンならご存知だろうが、駆け出しのライターである主人公が、愛すべき車に数々出会い、そこにまた、さまざまな女性が絡んでくるという、お洒落で小粋な作品集である。
男は女を愛する。しかし、男の中には、女以上に「クルマ」を愛する人種がいるのである。
本作「男と女」の主人公とヒロインは、カーレーサーと女性脚本家、という設定。
二人は、過去に結婚していて子供までいる。
ただお互いに伴侶を失ってしまった。
やがて二人は恋に落ちる。
この設定からして、まさに絵に描いたような「特権階級」の夢物語映画である。
この作品が作られたのは1966年。
日本公開も同年の10月である。
当時の日本の世情を見てみよう。
テレビでは「ウルトラQ」が放送開始
「サッポロ一番しょうゆ味」が発売開始
そしてビートルズが初来日した年だ。
ちなみに、カーレースでは前年の1965年、日本のホンダがメキシコグランプリで記念すべきF1初優勝を果たしている。
当時のカーレースは、いわば情熱とロマンをエンジンにぶち込んで走っていたようにおもう。
本作でもフォーミュラーカーと一般のスポーツカーが、ごちゃまぜで描かれている。
人々のモータースポーツに対する知識、関心はこの程度のものだったのだろう。
本作の劇中テーマ曲はあまりにも有名だ。
さらには、映画の手法として、ぶつ切りの編集。
手持ちカメラの多用。
二人が愛を語り合うシーンでは、あえてモノクロ映像にしている。
色彩のない明暗だけの映像を使うことにより、二人の燃え上がる愛が、どのような色彩を持つのか?
それは観客の自由な想像に任される。
いわば観客は「愛の色彩」を脳内補完するわけである。
フランス映画なので、登場する車は当然フランス車だと僕は思っていたが、
なんと無骨なフォードのムスタングなのである。
正直これには興ざめした。
ちなみに五木氏の小説「雨の日には車をみがいて」に最初に登場するのは
“たそがれ色”に変色してしまったオンボロ中古車の「シムカ」というフランス車である。別名「走る弁当箱」
1966年当時、駆け出しの放送ライターがマイカーを持つ、ということだけでも奇跡的なことだ。しかも外見はともかく「フランス車」なのだ。
「恋人と愛を語るには最高の演出だ」と五木氏も作中で語っている。
そして作中の「僕」は、1話目のラストシーンで「男と女」を三回続けて観るのだ。
それほどまでに当時、この作品はある種「時代のアイコン」でもあったのだ。
本作を初めてスクリーンで観て、僕がまず思ったのは、
「ああ、古い」
という印象である。
これはあくまで僕の個人的な主観であることを前もってお断りしておきたい。
映画手法としての
モノクロ映像とカラー映像の対比
手持ちカメラ
ぶつ切り編集
車載カメラ
登場人物のモノローグ
セリフと映像の不一致。
これらの手法は、1966年公開当時、まさに「流行」の最先端。
新しい波「ヌーヴァルヴァーグ」が、フランスから日本に押し寄せた!
と若い観客たちを熱狂させたのだろう。
しかし映画技法が単なる「ファッション」にしか過ぎなかった、という
極めて残念なことが、公開50年を迎えて、改めて僕には感じられたのである。
50年前のファッション作品は恐ろしく古臭く感じる。
しかし、90年前のチャップリン作品には、今なお観る人の心を響かせる、普遍性がある。
わずか数年で賞味期限が切れるような映画作品が、数多く製作される現代、21世紀。
流行という酔いが冷めたとき、22世紀にも鑑賞できる、芸術としての映画作品であるかどうか?
それが、ようやくわかるのではないだろうか?