聖なる犯罪者 プロット

過去を偽り聖職者として生きる男の運命を描き、第92回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされたポーランド発の人間ドラマ。少年院に服役中のダニエルは、前科者は聖職に就けないと知りながらも神父になることを夢見ていた。仮釈放され田舎の製材所で働き始めた彼は、ふと立ち寄った教会で新任の司祭と勘違いされ、司祭の代わりを命じられる。村人たちは司祭らしからぬダニエルに戸惑うが、徐々に彼を信頼するようになっていく。数年前にこの土地で起きた凄惨な事故を知ったダニエルは、村人たちの心の傷を癒やそうと模索する。しかしダニエルの過去を知る男の出現により、事態は思わぬ方向へと転がっていく。主演のバルトシュ・ビィエレニアが、少年院出身のダニエルと司祭トマシュという正反対の人物像を緊張感たっぷりに演じる。監督は「ヘイター」「リベリオン
ワルシャワ大攻防戦」のヤン・コマサ。

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聖なる犯罪者コメント(4)

ndeqpe
ndeqpe
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生きることを苦行と定義するならば、生まれ変わって生きることも苦行、まさに輪廻とは苦しみの無限ループである。

本作品の主人公ダニエル君は生きながらにして輪廻を味わう。

そう、殺人をする人間は、また殺人をするに帰する。

結局、人は救われないのか?
vzquxl
vzquxl
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少年院に服役中のダニエルは将来司祭になりたくて、少年院の司祭に相談した。答えは罪を犯し服役したののは司祭になれないと言われた。ローマカソリックではまだこれが現実なのか?ホーランドのローマカソリックがこうなのか?驚いたけど、私にはわからない。

賛否両論はあるだろうけど、以下はあくまでも私感だ。

服役中に更生のため神の話を聞かせてるわけだから、司祭になりたがる少年も出てきて当たり前だ。

主人公、ダニエルは出所後、木工所を紹介されバスに乗って出かけるが、木工所の工員が働いてる姿を見た途端、工場に入る気をなくしたようだ。そして、小高い場所に座り込む。そこで、教会の鐘の音を聞く。この設定が上手だねえ。ふといって見たくなるのはよく理解できる。

この村で、すぐ、少年院から木工所というステレオタイプが出来上がっているようで、(少年院でを安く使って良いことをしている経営者に後で会うが)ある女性にすぐ悟られる。かっこつけて、司祭だと祭服をみせる。

年配の司教代理(Vicar )も村人も ダニエル(トマシュ/トーマス司祭)を疑っているようであるが、まず、仕事を与える。告白の部屋で、信者の告白に初めて耳を傾けて、誰もが罪人であることを話す。そして、告白しただけでは物事は解決しないとアドバイスをする。

年配の司教代理(Vicar )が休養を取るためトーマス司祭に全てを任せて去る。
ミサでも彼は美しい声で賛美歌を聖歌を見ないで歌い、注目を浴びる.
村ではある女性の夫が飲酒運転(?)乗客を何人か道連れにして死んでしまったという事件が起きていた。その女性は村八分になり、夫の葬式も司教代理(Vicar )が許可せず出してもらえなかった。乗客で死んでしまった娘や息子たちを嘆き悲しみ立ち上がれない家族にトーマス司祭は自分の心の中にしまってあることを全部出すような弔い方をする。ある家族は『あなたが恋しいよ』といい、ある父親は『アバズレ娘』と。でも、トーマスは『死んだ娘さんはあばずれで恥ずかしいと思っていないんだよ』と的をえた発言をする。

ある日には、『許すことは忘れることではない。また、何もなかったように振舞うことでもない。許すことは愛である。人を愛しなさいその人に罪があっても。』年配の司教代理(Vicar )が去ってから信者は増えていく。または『あの人はこうだああだと、判断しないで、理解しなさい』と。

わああ、、、説教が上手で人の心を打つんだなあ。泣けるなあ。若者を理解しようとするし、事故で村八分になった女性の夫の葬式をする。(村の共同墓地に骨を埋める)また、その反面トーマス司祭は少年のように、若者たちと戯けたりする。トーマス司祭が来てから、歌は歌えないと言った女性まで、歌が歌えるようになった。彼によって、この村が一つの共同体のように動いていくのがわかる。

しかし、村が徐々に共同体のように変わっていっているが、トーマス牧師にはいつもくらい影があるし、それが、少年院時代の人で、木工所で働いていた青年の裏切りで、トーマス司祭は少年院の司祭に少年院にまたおくりこまれる。

最後のミサといって人を集めた日を最後にして。最後のミサでトーマス司祭は皆の前で祭服を脱ぎ裸になる。彼の体には釘で刺したように刺青が施してある。人々は呆気に取られるが、このシーンはペテロの裏切りにより、キリストが十字架にかかったようなシーンに思える。キリストは皆の前で、裸にされ釘で十字架に打たれるから。皆の前で、自分は罪人だと言っているトーマス司祭と被って考えてしまう。

新しい司祭を教会は迎えるが、ミサを聞く人はほとんどいない。でも、そこに、村八分になった女性が入ってくる。そして、一番憎んでいて歌が人前で歌えるようになった女性の母親が村八分の女性を招き入れる。ここで初めて共同体が一つになって人々が救われた。トーマス司祭の努力のお陰だ。

トーマス司祭を正当化してはいない。でも、
ブラックジャックに手術をしてもらうか。高齢だけど大学で医学免許をとった外科医にしてもらう?どっちがいい?
司祭の免許がないからと言って、人の心をうち感動させるミサができないとはいえない。また、司祭は免許はあるが、教会に人がこないというのは(実は)よく見かける。人がいても、ただ来ているだけの人もいる。問題はなんなんだ?

私はトーマス司祭の働きに感動する。教会はこのような青年にチャンスをあげるべきだと思う。少年院で神に支えたいとおもったなんて、ラッキーだと思った方がいい。まず、刑があると聖職につけないというのは取りやめてほしい。人間みんな罪人なんだよ。それがキリストの教えじゃん。どこかの教会で働きながら、司祭になるための学校に行かせてあげてほしい。こういうのはプロテスタントの教会で聞いたことがあるし、私の宗派にもある。だから、私の宗派の牧師は以前はヤクザだったりする。こういう人ほと、牧師や司祭になって苦しい人の気持ちがわかる人になるんだよ。若いものの目を潰さないでほしい。

『信仰』はポーランドだけじゃなく、現代のグローバル、ギグ社会との間に大きなギャップを生んでしまった。この歪みをうめるためにも、『私たちは罪人』だという言葉が生きてくると思う。

強烈で素晴らしい映画。この監督 ヤン・コマサJan Komasaの才能あっぱれ!
主役(バルトシュ・ビィエレニアBartosz Bielenia )の二重の人格の演技が上手。
ここで拍手を送る。ありがとう。
ouitahe
ouitahe
少年院から仮出所した青年が、偽りの身分を騙って町の司祭として住人達と意外な信頼関係を構築していくという、実話系の物語。

住人達から村八分にされている女性の気持ちに寄り添うなど人格者の一面を見せながらも、一度火が付けば酒・ドラッグに手を出して狂ったように目を血走らせる…
常に目に不穏な空気を漂わせるダニエルは不気味だった。

ラストで見せるあの狂気の表情が、彼の未来をどう暗示しているのかを推し量るのは、中々に難しい終わり方だった。
xvcurh
xvcurh
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ポーランド映画際2020にて鑑賞。上映前に現地の映画評論家の解説があり、実際に起きた出来事の着想を加えた作品だという。また、この作品は近年のポーランド国内では最も影響を与えた作品だという。

予告でうたってる通り主人公のトマシュが少年院から退所したばかりの少年がとある田舎町の神父として偽りながら生活し、そして町に携わる話。

トマシュは服役中に礼拝などを通して神父になる事を夢見る。しかし前科持ちは神父になれない事を神父から告げられ出所後、心の葛藤と戦う。
そんな中ある田舎町の教会を訪れた際、冗談半分で神父であると嘘をついたのだが、それを周囲が信じてしまい、そして偶然にも町の神父が休息を取りたかったこともあり半ば強引な形で神父として生きる事となる。

最初は戸惑うものの神父として生き甲斐を感じ、そして自分の考えなどを持ち、教えを与えるようにもなる。
そこで町が抱えてる事故の問題に首を突っ込みすぎて町民から反感を買い、そして少年院仲間に見つかり足元を見られゆすられる。

最終的にはその少年院出の仲間に売られてトマシュも少年院に戻り、また以前の暴力に生きる姿で作品は終わる。

僕は無宗教の為、宗教についてものすごく知識があったり強い考えがあるわけではない。
それでもこの作品はとても見入る事ができ、自分自身の中であれこれ考えたり、自問自答しながら見ることができる作品であった。

結論としては自分なりの確固たる答えは見つからない。
もちろん前科持ちとはいえど、刑期を全うして出てきたわけだからチャンスがあってもいい。
また彼の言葉に救われた人も作中内にはいくらかいた。
これは彼が前科持ちという事を知っていればおそらく同じ言葉や状況でも捉え方は変わるのかもしれない。
それはとても都合の良い神の言葉である。

とはいえ、免許も持っておらず神父になるにあたって勉強をしてきたわけでもなく知識もない。
偽りの中生きており、常に偽りを持ち続けてる中で助けを求める人々に教えを与えるのはやはり違うのものであろう。
トマシュがやってきた事自体は決して許されるべき事ではないのは事実であろう。

前科持ちでも神父になるチャンスは与えるべきかどうかがこの作品の一つのターニングポイントなんだと思うが
、無宗教の自分にとってはやはりその点に確固たる答えは見つける事はできなかった。

答えは見つからなかったがトマシュの神父への希望と現実の苦しみなどが存分に描かれとても見入る事ができ、色々自問自答しながら見ることはとても貴重な体験となった。