「17歳の肖像」「ワン・デイ 23年のラブストーリー」を手がけたデンマーク出身の女性監督ロネ・シェルフィグが、老舗料理店に集った人びとの交流を描いた人間ドラマ。ニューヨーク・マンハッタンの地で創業100年を超える老舗ロシア料理店「ウィンター・パレス」。かつての名店も、今では料理もひどい、ただ古いだけの店になっていた。さらに、店を立て直すためにマネージャーとして雇われた刑務所を出たばかりのマーク、仕事ばかりで他人のためだけに生きる変わり者の常連客アリスと、店に集まるのはクセのある人びとばかり。そんな店に2人の子どもを抱えたクララが飛び込んでくる。無一文の彼女は、ある事情で夫から逃げてきたというが……。キャストに「ルビー・スパークス」のゾーイ・カザン、「バードマン
あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」のアンドレア・ライズボロー、「預言者」のタハール・ラヒムらが顔をそろえる。2019年・第69回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品。
ニューヨーク 親切なロシア料理店コメント(7)
大好きな作品がまた一つ増えました。ありがとうございました。
Whoever you are—I have always depended on
"the kindness of strangers."
ピューリッツァー賞受賞作であるテネシー・ウィリアムズの戯曲の中で、自ら破滅していく主人公の女性ブランチの言葉より、この映画の原題「The Kindness of Strangers」をなぞらえるとブランチと映画のクララは、共通項を見い出すことが容易なのかもしれない。
ブランチが自分自身ではなく「見知らぬ人の優しさ(the kindness of strangers)」に依存していることから、彼女は人生でつまずいてしまった訳であり、実は見知らぬ人は性的な事と引き換えに親切であったという事実だけが残る...
『欲望という名の電車』では、ブランチが施設に運ばれていくというようなトラブルのどん底で彼女の言葉は発せられている。だから、映画「ニューヨーク 親切なロシア料理店」の原題のタイトルはうまくいくのかもしれない。マンハッタンと呼ばれる偽善という魔法の王国で失われたこころと失意の無常さをこの文字化けしたような映画では描かれ、目を見開くようなメロドラマは、現実と同様に希薄な関係にあることを理解しなければならない。
余談として、映画化された作品の製作者はクララを演じたゾーイ・カザンの祖父にあたる。当然のように絶賛された結果、多くの有名な賞を受賞している。偶然というコインシデンスを感じてしまう。
むかし、南の島で暮らしていた時、映画「ニューヨーク...」のクララと男の子2人と同じような家族と過ごしたことがある。彼女はシングルマザーで貧しさの代わりに神の信仰が支えで、布教の様子をロシア船の乗組員、たぶんキャプテンに面会していたのをこの映画が思い出させてくれていた。あまり思い出せないことでも、抽象的に息子さんの産毛が逆光で美しく輝いていたの忘れないでいるほど映画の子役の方たちよりもハンサムさんであった事だけは確かに記憶している。個人的な事をアメリカ人である彼女たちに聞くことをためらわせる代わりに子供たちが見ず知らずの東洋人に対しても人見知りをしない、屈託なく接してくれたことが、不思議で、布教活動の為に南の島国に来るまでに多くの国の人とかかわったことをそれが物語っていた。
この映画は、涙を誘う... 涙を流さない人とはソーシャルディスタンスではなくて、心のパーソナルスペースを広く置きたくもなる... でも
『プリティ・ウーマン』のゲイリー・マーシャル監督の『バレンタインデー』(原題: Valentine's Day)や『ニューイヤーズ・イブ』(原題: New Year's Eve)というアンサンブル・コメディの負の部分を強調したビクトリア朝のメロドラマのようで、感傷的でこころを引きずるような心身ともに傷を受けたクララの子供たちの表向きだけのフェイルセーフな材料だけの映画... ここでより不思議で不可解であることの証明とは... 脚本家でもある監督のロネ・シェルフィグがキャラクターの関係を碁盤の目の上に整然と乗せたプロットのように、実際の人々が互いのニーズに対応する複雑で厄介な方法を探求するために苦労したかのように、すべてが卑しく、狡猾な機械的に作用させているようにも受け止めることができる。
映画は適度なセンスとフットワークさを持って映し出され、エレガントな弦の調べのフィルムスコアに重点を置いているけれども、他人の事は知ったことではない大都会マンハッタンでの生活のスナップショットに、その過酷さを和らげることができる人道的なジェスチャーのワンシーンを加え、それはまったくナンセンスなニューヨークの負の設定が濃い過ぎて逆にチープな心を痛めるヨーロッパ式の現代のロマンティックなおとぎ話に完全に合成されたように感じる。
寓話風論理において基本的なヒューマニズムとキャラの悲惨さを同じ形の中に構成するのは、シェルフィグ監督の手法は、全てがやや間違っていると言える。
テネシー・ウィリアムズの戯曲が現代でもなぜ再演され続けるのか? しかも場違いな黄色いサルの住む国でも... 映画で主人公のブランチを演じた希代の女優ヴィヴィアン・リーの私生活のエキセントリックさが、哀しくなるほどで、本作品の俳優陣では誰一人として太刀打ちはできない。
そんな陳腐な映画として 失礼、酷い表現で