エッシャー 視覚の魔術師

6.6/10
合計12件のレビュー
ジャンル   プロット
ランタイム   80分
言語   まだ情報はありません
地区   オランダ
書かれた   ロビン・ルッツ
劇場で   12月14日 2019
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エッシャー 視覚の魔術師 プロット

トリックアートで世界的に知られるオランダ人版画家・画家マウリッツ・コルネリス・エッシャーの生涯、作品に迫ったドキュメンタリー。エッシャーの家族へのインタビュー、彼が遺した1000を超える書簡や日記、収集家の証言などから知られざるエッシャーの波乱に満ちた人生、そして創作の足跡を丁寧にたどる。また、70年代のサイケデリック・ムーブメントの時代にエッシャーからの影響を多大に受けたロックミュージシャンのグラハム・ナッシュへのインタビューや、人々の日常生活の中に見られるエッシャーの影響など、その創造力の源泉をCGアニメーションの手法も取り入れながらさまざまな角度から探っていく。監督は数々の長編ドキュメンタリーを手がけたロビン・ルッツ。「EUフィルムデーズ2019」では「エッシャー
無限の旅」のタイトルで上映。

エッシャー 視覚の魔術師 俳優

エッシャー 視覚の魔術師 写真

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エッシャー 視覚の魔術師コメント(4)

npuvhkr
npuvhkr
年代がわかりずらく、生涯の何にスポットをあてたいのかよくわからない。家族の証言もあるがインパクト弱め。芸術にワンダーを求めたと語られるがこちらも内容うすめ。残念。
jnrusx
jnrusx
エッシャーさんの書簡や日記をナレーションに、記録写真や映像&CGでデコレーションしたエッシャー作品で綴る一品。

版画に向かうことになったくだりや、奥さまとの馴れ初め、まだエッシャーらしいエッシャーではなかったころの作品など興味深くはあるはずだったのだが…今いち刺さらず少しだけ寝落ちしてしまった。

私は多分、あの脅威な作品を生む至った、狂気を期待していたのだと思う。しかしそこまでの演出はなく、偏屈な変人というところ。

満たされなかった。
ので星低め。
nqlxqko
nqlxqko
エッシャー、トリックアートは不勉強だが芸術作品にも色々ある事、エッシャー自身トリックアートは数学として私のアートを観てほしいと伝えかったのは理解できただけでもこのドキュメントを観た価値がある。しかし、エッシャーの作品よりも私の作品を模倣する若者やヒッピーが多い事、若者やヒッピーが私の作品が面白いのが信じられないとエッシャー自身が語った場面は印象的。今の著作権問題、肖像権問題にも繋がる問題として考えるいい機会。マイナス点はトリックアートの認知度とエッシャーが伝えたかった事。特に後者は全く伝わらずマイナス2点とした。
yydlkb
yydlkb
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(1)まさかエッシャーにも・・・
エッシャーの作品は、“純粋なアート”とは言えないし、“数学者の玩弄物”の悪いイメージがあった。
エッシャー自身も、この映画の中で、自分は「アーティストではなく、数学者」であり、「他の芸術家は“美”を求めるが、自分は“驚異(ワンダー)”を求める」と語っている。
そのため自分は、これまで興味が持てず、その生涯については知らなかった。

しかし、本作品を見終わった後、軽い衝撃を受けて、帰宅後にエッシャーの画集に食い入るように見入ってしまった。
作品に独特の“人間性”が感じられるようになり、今まで“よそよそしく”感じられた「エッシャーの世界」が、眼前に一気に開けたのである。
他のモダン・アーティストの例に漏れず、人物を理解することによって、作品の理解が進むということが、まさかエッシャーにも当てはまるとは、この映画を観るまで考えもしなかった。

ただし、この映画が提供する情報は、質・量ともに、たいしたことはない。ネットで手に入るレベルのようだし、良く知る人には退屈な内容だろう。

エッシャーほど、「大器晩成」という言葉が似合うアーティストも珍しい。
世界を驚かす作品を生み出すのは、イタリアを去ってベルギーに移住した1937年(39歳)以降である。
この映画では、(a) 少年期からイタリア滞在期の無名時代はどうだったのか、そして、(b) なぜイタリアを去ったことが、のちの“驚異”的作品を生み出すことにつながったのかが、鮮やかに示される。

(2)前半 ~少年期からイタリア時代まで~
この前半部分は、普通はあまり語られないと思われ、この映画の一番の価値なのかもしれない。
病弱な少年時代。メスキータ先生との出会いと版画への転向。イタリアの風景との出会い。そして、結婚と家庭の話。
エッシャーも、南国の太陽のもとでワインをたしなむ旅人であり、恋人を想って夜の街を徘徊する傷心の青年だったのだ。(ただし、この時期のイタリア各地やスペイン旅行の詳細は、本作品では端折られている。)

時々、エッシャーが描いた風景画の後に、実際の風景写真が映し出されるが、比較すると、かなり写実的に描いていることが分かる。
また、自然の細部を正確に描写しようとしたが、「見れば見るほど、とらえどころがない」ことに気付いたというエピソードは興味深かった。
「ローマは夜の方が良い。バロックの過剰な装飾を闇が隠すからだ」と言う。そのため、毎晩、デッサンに出かけて、翌日に版画を制作するのだ。

この前半部を振り返れば、いかに数々の出来事や偶然が、エッシャーを導いたかに驚かされる。
もし、メスキータに出会っていなかったら・・・。
もし、病気療養のためにイタリアに行っていなかったら・・・。
もし、ファシズムが迫らずに、そのままイタリアにとどまっていたら・・・。
唯一無二と言えるエッシャーの絵は、この世に存在しなかった可能性が高い。
だからといって、ムッソリーニに感謝するわけではないが。

(3)後半 ~「エッシャー」の誕生~
後半は、イタリアを去った(1935)後の展開となる。雪が嫌いでスイスを離れ、ベルギー(1937)、そして故国のオランダに移住する(1941)。

伝記部分は、前半と変わらず充実している。
戦争中は、自分が自転車で買い出しに行かねばならず、創作が全くできなかったこと。
師のメスキータがナチスに拘禁された時(即座にアウシュヴィッツでガス死)、急いで200枚の作品を保護したこと。
ずっと肉親の財産が生活の頼りだったが、戦後(1951, 53歳!)に有名雑誌に載ったことで、急に知名度が上がって金が入るようになったこと。
精神を病んでいた妻のこと。
60歳を過ぎて、エッシャー自身に結腸ガンが見つかり、手術のたびに創作が中断されたこと・・・。

もちろん、エッシャーの作品世界についても、じっくりと紹介される。
スイスで快適でなかったエッシャーは、妻の髪を洗う音から“波の音”を連想し、「海へ行きたい」と願う。そして、版画作品の提供を条件に、地中海巡りの船に乗せてもらう。
この14年ぶりの、2度目のスペイン・アルハンブラ宮殿への訪問(1936)では、より深くタイル装飾パターンを学び、たくさんのデッサンを残す。と同時に、幾何学模様しか使えないイスラムの制約を残念に感じて、「自分には、“鳥”や“魚”は欠かせない」と思う。
この“欲求”あるいは“野望”こそ、まさに“エッシャーのエッシャーたる所以”だろう。

災いが転じて福となる。ちょうど期は熟し、“刈り入れ時”だ。
イタリアを去り、描くべき風景を喪失したエッシャーは、アトリエに籠もる。
そして、自己の内面に向かい、思考で生み出した「自分にしか表現できない」形を、画材で再現していく。
ここからが、我々がよく知る、思わず膝を打つような独特のアイデアの「エッシャー作品」の誕生なのだ。

(4)作品の制作および解説
エッシャーの造形には、色々なタイプがある。
(a) “正則平面分割”
(b) 螺旋(「終わりのないひも」)
(c) 反射(球・水たまり・「眼」)
(d) 相対性(“でんぐり虫”・「階段」)
(e) 平面と空間の拮抗(「版画の回廊」・「描く手」)
(f) 不可能な建物(「下ったり上ったり」)
いくつか作品が紹介されるが、中にはCGを使って、虫やハ虫類を動かしたり、絵をねじるようなプレゼンテーションで楽しませてくれる。

(a) “正則平面分割”というのはエッシャーの造語のようで、「テッセレーション」のことだ。
もともと、描画の対象と“背景”は「同じ意味をもつべき」とするアイデアは、すでにハーレムの学生時代からあった。
それが、アルハンブラ宮殿のタイルを見て“繰り返しの法則”を知り、一気に開花する。
“終わりのない数(円の極限)”の一群の絵では、最初に試した“外から内に”徐々にパターンを小さくする描き方に不満で、逆に“内から外に”パターンを小さくすることで満足な結果が得られたという。
“絵物語”(「サイクル」・「出会い」・「メタモルフォーゼ」)では、3次元の物体が2次元のパターンへ移行し、さらに2次元から再び3次元の立体性を獲得していく連続的な変化が描かれる。

科学者に大人気のエッシャーだが、エッシャー自身は、純粋な数学的手法では創作できないと言う。だから「自分なりに愚直に解決するしかない」。
エッシャー作品の素晴らしさは、数式からは自動生成できない「子供のような遊び心」と芸術的センスだ。
奇想の数学的空間に、“トッピング”されたように存在する、奇妙な人や虫の姿。
タイルのように敷き詰められるのは、アルハンブラ宮殿のような幾何学的形態ではなく、鳥や魚やハ虫類、そして異形の人間や天使や悪魔。
そうして、「科学者と芸術家の間を“ただよう”」のだ。

エッシャーは、色に頼った絵画制作はしない。
色を必要とするのは、形を塗り分けるためであり、他の画家にとっては当たり前の、“美”や表現としての色彩という発想はないように見える。
よって、「銅版画家」の感性と言って良いのだが、しかし面白いことに、エッシャーは「凹版」で制作することは、ほとんどないのだ。

版画の技法は、ほとんどが木版(板目、木口)とリトグラフである。(ただし、映画にも出てくる「眼」は、メゾチント(凹版)の作品である。)
エッシャー自身が、小型のプレス機で版画を刷っている姿が、映像に出てくる。
また、エッシャーは、自分の画力が高いとは考えておらず、重要なのは「自分に厳しく、どれだけ歯を食いしばって頑張れるか」であり、一方、「ほとんどの人は(エッシャーのような)情熱が欠けている」と言うのである。

(5)おまけの話
その他、作品とは、直接には関係のない話もある。
教会のパイプオルガンや「マタイ受難曲」を聴いた時に、「想像力が解き放たれて」見たシュールな“飛翔する幻覚”が語られる。
また、「バッハの音に打ちのめされる」とか、「バッハと私の作品はつながっている」と語り、バッハの音楽を好んだようだ。

“ヒッピー”やロック音楽のミュージシャンには、エッシャーは“サイケデリック”に見えたのか、人気が高かった。
エッシャーに無断で「蝶」や「椰子」の絵が、極彩色に色付けられて複製されたり、ミック・ジャガーから、レコードジャケットの依頼もあった。
彼らの鋭敏な感性は、エッシャーを単なる「だまし絵」の画家とも、数学的な絵とも見ていない。
エッシャーにとっては迷惑な話だとしても、作品の“芸術的側面”を物語るものとして面白いエピソードだ。

アニメーションに興味をもち、“メタモルフォーゼ”を題材とした芸術的な映画を夢見るが、「退屈だろう」とあきらめる。

なお、エッシャーを「マウリッツ」と呼ぶのは、失礼なのだそうだ。

(6)結局のところ・・・
ラストでは、「自分の作品だけで第二の人生を満たせる」というエッシャーの言葉が紹介されるが、どういう意味なのだろう。
もはや新しい発見は求めてはおらず、自分の作品の出来映えにまだまだ不満なので、第二の人生で、それらの完成度を高めていくという意味だろうか?

クラシックからロックまで、音楽が騒がしい映画である。(エンドロールでは、バッハがロック風にアレンジされる始末だ。)
80分とは到底思えないほど、盛りだくさんの内容で、自分は大満足だった。