認知症に苦しむ老母の家を訪れた母娘が恐怖の連鎖に巻き込まれていく姿を描いたサスペンススリラー。森に囲まれた家でひとり暮らしをする老女エドナが姿を消した。エドナの家に急行した娘ケイと孫娘サムは、エドナが認知症に苦しんでいた痕跡を発見。2人が心配する中、突然エドナが帰宅する。しかしその様子には違和感があり、まるで見知らぬ誰かに変貌してしまったかのようだった。愛する母であり祖母であるエドナの本当の姿を取り戻そうとするケイとサムだったが……。ケイを「メリー・ポピンズ
リターンズ」のエミリー・モーティマー、サムを「ネオン・デーモン」のベラ・ヒースコートが演じた。「アベンジャーズ」シリーズのアンソニー&ジョー・ルッソ兄弟が製作総指揮、俳優ジェイク・ギレンホールが製作を手がけ、日系女性監督ナタリー・エリカ・ジェームズが長編初メガホンをとった。
レリック 遺物コメント(20)
無茶苦茶怖くて、それで、色んな人にシェアして憑き物を落とそうと、そのストーリーをLINEに急ぎ書きとめて、昔の会社の先輩や同僚、大学の友人、田舎の友人、取引先のお兄さん、部下だった後輩なんかにLINEしまくった。
実は、かなり好評で、僕自身は憑き物が落ちて、しめしめと思っていたが、中でも一番頭の硬そうな先輩が、案の定、この人とこの幽霊らしきものとの関係性は?とか質問が返って来た。
“分からないから、怖いんじゃないですかーーー”
って、返信したら、”あっ、そういうこと!?”
だって笑。
まあ、この作品も、そうした「?」が残る作品なのだが、大きな怖さに展開するきっかけがない分、少しずつ、ジワジワとホラーの領域が侵食するように広がっていくところが、なんとも”気分が悪く”て、やっぱり怖い。
ただ、僕のYouTubeで聴いた怖い話の方が、怖いと思う。
なぜなら、わけの分からないものを映像として描写するのは、他人の感性に依存してしまうからだ。
わけの分からないものは、自分の想像のなかにあってこそ、より怖いと思うのだ。
だから、日本の百物語なんかの怪談話は、伝統として息づく怖さを秘めているのだと思う。
この作品については、わけの分からないものの映像がイマイチな感じがしてしまった。
でも、雰囲気は怖いけどね。
それと、認知症をモチーフにしているところも、なんか好感度を下げてる気がする。
認知症の人を化け物扱いする感じはたしかにちょいと道義的問題を感じるが、よく見て行くとこの家自体の因縁が原因であるし、つまるところ親子の愛がテーマだ。
ホラーとしてはソフトかも知れない。
でも誰もがいずれこの親子の何方か、いや両方の立場になるわけで、自分の心に蓋をしたい部分であり、多少なり自覚のある人にはかなり重くのしかかるテーマだ。5080問題、介護に疲れての心中、、、、日本の現実も映画に肉薄していると思う。
個人的にはかなり怖かった。
製作陣が凄いね。
アメリカで3週連続1位というのは、この手の闇を抱えている人が多いって事なんじゃないかな?
どっかで見た女優さんだなと思ったら「マイブックショップ」の人だった。
もの凄く怖くはないのですが、じわじわくる怖さが良かったです。
この日系の女性監督は初めて知ったので、
他の作品もぜひ見てみたいと思いました。
今作は日系オーストラリア人監督のナタリー・エリカ・ジェームズの長編初監督作品となるが、日本にいる祖母を久しぶりに訪ねた際に、認知症によって別人のように変わってしまっていた実体験をベースにした物語であり、ホラーコーティングしているものの、描かれていることは、誰にでも身近に起き得ることである。
3世帯を通して描かれるという点にも意味があって、別人のようになってしまった、その対象の人物が「母」であるか「祖母」であるかによって、また見え方が違ってくる様子がケイとその娘サムの目線を通して伝わってくるのだ。
ケイの場合は「母」であることから、今まで育ててもらった恩だったり、長い間会えていなかった後悔なども入り混じりつつも、自分の手に負えないという不安もある。一方、サムの場合は「祖母」であって、少し距離感のある関係ということもあり、責任が直接的ではないことからも、その目に映るのは「可哀そう」という印象が強かったりもする
超常現象ホラーのようでありながら、基礎となっているのが日常にある問題というのが、より恐ろしく感じるの同時に、切なさも強烈に伝わってくる。
アンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』は、認知症の視点から見た世界がサスペンスのように描かれていたことが斬新に感じた作品であったのに対して、割と家族の視点からの作品というのは、豊富にあるし、今までのホラーの中にも、精神疾患や認知症といったものへの日常的不安が悪魔や心霊となって表現されきた作品はあるのだが、ホラーテイストに仕上げながら、身近な問題という絶妙な距離感を保ったことは、今作の特徴であり、大きく評価できる点である。
自分の身近な人物、大切な人物が全く別の存在になっても、存在そのものは内側からも外側からも変わらないとしたら、それでもその人を愛し続けられますか…という問いを極端な角度から求めてくるような作品ともいえるだろう。
登場人物が比較的少ないことに関しても、結局は「家族」の問題でしかなく、周りは何もしてくれない。という皮肉のように感じられた。